治療時間

平日: 10:00 - 20:00(最終受付19:00)

: 9:00 - 18:00(最終受付17:00)

 

休診日:日曜祝日

電話:070-6529-3668

mail:kouno.teate@gmail.com

住所:東京都新宿区市谷甲良町2-6エクセル市ヶ谷B202

~仕事を続けた母~

僕の母は小学校の教師だった。


男女雇用機会均等法は無い時代、女性でも男性並みに働ける、同じ役職につくことができる(頑張れば管理職に就くことができる)のは教師、医師、弁護士など限られた職種だけ。
だから母は学校教師を目指した。文学部を卒業し中高一貫の母校で働くも、小学校の教師になりたくて通信大学で教育学部を出て小学校の教員免許を取得する。もちろん働きながらだ。

 

結婚後も、女性が家庭に入り(この表現も古臭いが)専業主婦になるのが当たり前だった時代に、結婚後も仕事を続けた。なお、父が家族を養えなかったわけでは無い。十分に稼ぎがあった。
父は地方勤務で、母が仕事を継続することもあり、単身赴任を選ぶ。週末にだけ父が家に帰って来る家庭で日中は教師、帰宅すれば2児のお母さんという生活を母は選択した。当時、単身赴任で管理職だった父に部下が「○○の奴は奥さんを働かせているふざけた奴ですよ」と告げ口をしてきたそうだ。単身赴任であったから上司の妻が仕事をしていることなど知らなかったのだろう。
管理職の奥さんが仕事をしているなど非常識、という時代だった。

 

僕は物心ついたときから保育園に通っていた。たぶん0歳か1歳から通っていただろう。周りの友達は、当たり前だが、全員共働きの家庭。特に不思議に思わなかった。うちはお迎えが特に遅い方だったことは覚えている。


保育園のそばに母の勤める小学校があった。担任を持っている生徒や保護者に出会うと、その瞬間から「功くんのママ」から「甲野先生」に変わるのが保育園児でも手を繋いでいて分かった。

 

小学校にあがると、自分のような家庭がマイノリティーだと知る。
クラスの大多数は入った市谷小学校附属の幼稚園から上がってきているからみんな知り合い。15人しかいなかった保育園から僕を含めて3名が市谷小学校に進学したけれど、この3名は6年間クラスが同じだった。考慮されてのだろう。
小学校が終わってそのまま学童クラブに行く。夕方姉と帰宅するときに、あいつらなんでこんな時間にランドセル背負っているの、と白い目で見られた。まだまだ学童クラブに通うのも少数派だった時代。

 

それでもあまり悲観しなかった。


幼稚園あがりは集団生活ができない、保育園あがりはしっかりしている。幼稚園から来た同級生は子どもだと思った。自分も子どもなのに。小学校2年生から学童クラブに行くのを止めて、いわゆる鍵っ子に。行きたければ学童に行くし、親のいない家でくつろいで遊ぶし。とても自由な時間ができた。自転車に乗られるようになると近所中を自転車で探検した。毎日友達が遊びに来たし、遊びに行った。

 

小学校3年生くらいになると、他のお家には放課後お母さんがいるものだと分かるようになる。他の友達がうちに来たときは「おやつは出ないの?」と聞かれた。うちは変わっているようだと認識するようになる。


小学校の授業参観で両親が来た記憶はない。父が地方にいるし、母は教師側として授業参観をしているから。区立小学校は一斉に授業参観をするので絶対に母が休んで来ることはない。その代わり研究授業といって、教師が他の小学校の授業を見学するときは、他校の先生として母が来ていた。運動会も被ることが多かったので見に来ないことが多かったが、振替休日が一緒になるので姉と母、三人でお出かけをよくしたものだった。

 

子どもの頃、寂しいという気持ちは全くなかった。専業主婦の息子になった経験が無いし。比較しようがない。他の家庭をみて家にお母さんがいるのも面倒くさそうに見えたし。保育園からの幼馴染は共働きだったし、学童クラブでよく遊んだ友達も共働きだった。

 

もうずいぶん前に親戚で同世代の女性に相談を受けたことがあった。
その人は30過ぎで結婚し子供を産んだばかり。本人は彼女の母親が20代前半に産み、小さい頃は家庭に母がいた環境で育った。僕は母が35のときに産んだ子供だったから、向こうのママは随分若いなあと子供心に思っていた。


その親戚の女性は、自分が年をとって産んで(今ではそんなことないのだけど、その人の母では自分の年にはもう娘が小学校に上がっていたからそう言ったのだろう)共働きで、あまりに自分自身と娘が育つ環境が違い過ぎて心配になる、と僕に話した。
功くんのときはどうだった?と意見を求められた。確かに僕の育った環境にとても似ていると言える。そのときは思った通り答えた。「当事者の子供には関係ないよ。だって他と比較できないもの。分かるようになるのは大きくなってからだし、今時共働きなど普通でしょう。」

 

あれから時間が経って僕も子どもがいる。


結婚をするときに相手は仕事を続けれらる女性がいいなと思っていた。実際に妻はずっと働いている。長女を生後4ヵ月で保育園にいれることも抵抗がなかった。「子どもがかわいそう」、「子どもよりもキャリアをとるわけ?」、といった意見は全く響かない。当の子どもだった自分自身が何も思っていないから。何より今が女性の社会進出が進み、共働きでないと家庭を維持できなくなっているし、0歳から保育園に入れないと保育園に入れない。近所にはどんどん保育園ができていて、周囲には待機児童がいる。反対に幼稚園では「園児募集、このままでは排園してしまいます」という張り紙。


ひと世代で環境はひっくり返った。マイノリティーだった保育園育ちがメジャーになっている。

 

そしてつい昨日の事。商人大学校のセミナーが終わったあと、名刺交換してくださいという年配の女性が現れた。僕が牛込柳町で開業していると聞いて、近所で商売をしているので、ということだった。名刺の住所を見ると確かに近所。そこで、そこのそばの小学校で母は先生をしていたのですよ、と話した。ご近所トークのつもりだった。


それを聞いたときに、彼女の表情が止まった。ほんの数秒だが固まった。僕の名刺を見ている。正確には僕の名前を見ていたのだろう。小説やテレビでは出てくるが実際にあまりお目にかかれない、絶句、というやつだ。女性はうわずった声で「うちの娘は担任でした」と言った。彼女は母が小学校で担任を持っていたときの生徒さんのお母さんだったわけだ。何という偶然。


彼女は堰を切ったように興奮して話しだした。「本当に甲野先生(もちろん母のこと)はとても良い先生でね。あの時は本当に残念で。」
僕は察した。しかもあの時の生徒なのか、と。


その頃、現場主義を貫いていた母だったが年齢的にもキャリア的にも管理職を目指す段階に入っており、教頭試験を受けていた。試験に受かり、枠があれば教頭になるという時期だった。そんなときにある学校のアクシデントにより、急遽教頭の枠が空くことになり、そこに母が入ることが決まった。小学校の担任から年度途中で教頭になるということだ。

学年の途中で小学校の担任が変わるなど前代未聞であり、保護者からは反対の声が多数あがったらしい。そのときの保護者側にいたのが、目の前で名刺交換をしている女性だったのだ。


その騒動の当時、僕はふーん、と母の話を聞き流していた。思春期の中学生には母の仕事に対して興味がなかったのだ。現場が揉めているというのは知っていたけれど詳細は知らなかったし聞きもしなかった。


「甲野先生が途中で変わるなどおかしいと学校に抗議したのだけど、学校側の対応がひどくて、私たち怒って教育委員会まで行ったのよ!」。彼女の言葉を要約するとこのようになるが、実際にはもっとストレートで感情のこもった言葉だった。教育委員会までクレームを出しに行ったとは。その行動に驚いた。そしてもう四半世紀前の事だろうに、それをまるで昨日の事のように話すことも。それだけ母を慕い、子どもを担任として教えてもらいたかったという想いを感じた。

 

今まで、母が受け持ったクラスの生徒や同僚の先生に出会ったことはあったが、保護者に会ったのは初めてだった。
保護者側からこれだけ言ってもらえる先生だったのだ、母は。


来年長女は小学校にあがる。もうすぐ僕も保護者になる。家ではママだったが、外では小学校の甲野先生だった母。時代を経て積み重ねた実績と周囲に与えた影響を知ることになった。この年で親の社会的成果を知るとは。

 

共働き家庭に育ったことで、大人になって社会で築いた母親の成果を知る機会に恵まれた。

 

甲野 功