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~母校小学校開校115周年~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 市谷小学校開校115周年記念展示
市谷小学校開校115周年記念展示

 

私の出身小学校である新宿区立市谷小学校が開校115周年を迎えました

 

体育館で記念展示をしており保護者への展示をしているので行ってきました。

知っての通り新型コロナウィルスの影響が。記念式典のようなイベントは全て中止だといいます。5年前の開校110周年には卒業生として式典に参加してきました

そのときは体育館を会場にしてたくさんの関係者が集まっていました。校庭では露店やイベントがありました。そのときに数十年ぶりに何人かの同級生と再会しました。

 

110周年という切りのいい記念年と比べるのもあれですが、5年前と今回はまさに大違い。ひっそりと公開している感じでした。なかなか残念なものです。三密を避けるために短時間の観覧とするように連絡がありました。

 

展示物も、ステージにある記念キャラクター115まなぶくん、各学級で1本ずつ制作した天井の垂れ幕、そして児童が作成した市谷小学校の歴史をまとめたVTRの3つだけ。ほとんど物が置かれていない体育館でした。展示物を増やせば人が溜まってしまうからという配慮なのでしょうが、なかなか寂しいものでした。

 

あじさい鍼灸マッサージ治療院 市谷小学校開校115周年の垂れ幕
児童が作成した垂れ幕

 

 

115周年にあたった学年はちょっと可哀そうです。5年後の120周年を経験するのは現在の1年生のみ。今年はイベントがほとんど中止だとはいえ5年に一度の式典も簡素なもので終わるのは残念です。

 

私も市谷小学校出身で開校80周年と開校85周年の2回周年記念式典を経験しています。

 

85周年記念のときは6年生でした。そのときに大きな壁絵を作成したのですが6年生が下絵を作成し鉛筆で下書きをしました。その絵をもとに2~5年生が順番に色を塗っていき最後に6年生がまた仕上げをするということをしました。完成したものは校門横の壁に設置されて通りから見えるようになっていました。中学校に上がった後もしばらく絵を見ることができたものでした。

80周年記念のときは校章を模した文鎮が作られてもらいました。小学校1年生の時だと思いますが、それはきちんと取っておいていまだに自宅にあります。そのような私のときの周年記念式典のことを思い出しました。

 

記念冊子やVTRを見ると市谷小学校がどのような歴史を経てきたのかが分かります。

 

 

市谷小学校開校115周年記念冊子
市谷小学校開校115周年記念冊子

 

 

知らなかったことも多々ありました。 混乱のもとになる市ヶ谷学校についても改めて学びました。市ヶ谷学校市谷小学校とは別の学校なのです。この市ヶ谷学校にかの文豪夏目漱石が通っていました。名前が非常に似ているだけでなくあった場所も現在の市谷小学校のすぐそば。そのため“夏目漱石は市谷小学校に通っていた”と思ってしまうことがあります。そこら辺のことを私も110周年記念式典に行くまできちんと理解していませんでした。

 

今回もらった冊子を読むと更に知らなかった変遷がありました。

 

設立認可が降りたのが明治38年で翌39年5月に授業が開始。

明治41年に東京市市谷尋常小学校として開校とあります。明治39年から授業がスタートしていて41年に開校というのはその間は何だったのだろうかと疑問に思います。

 

明治42年に市谷尋常高等小学校に校名改称。高等小学校という今では使われない名前です。

 

大正8年に校舎が消失。VTRでもありましたが校舎が全焼したと知って驚きました。そんなことがあったとは。建て替え時に今でも一部残してある煉瓦塀ができたとのこと。

 

昭和16年に東京市市谷国民学校と校名変更。国民学校という名称も太平洋戦争に向かう時代を感じさせます。19年には集団疎開が実施されたと。

 

戦後の昭和23年に東京都牛込第三小学校に校名変更。ここが一番の驚きで、まさか市谷の名前が無くなっていたとは。現在も牛込第三中学校はあるのでまるで附属小学校のような校名です。

新宿区の小学校は四谷第六とか落合第二とか戸塚第三など地名に数字をあてた小学校の名前がいくつかあります。子どもが増えて学校が新設され番号で続けた方が楽だったのでしょう。しかし市谷の名前が消えた時期があるとは思っていませんでした。というのも校歌の最初は「名もふたつなき市谷の」と始まるのです。これは市谷第一、市谷第二のような複数の名前ではなく本校しか市谷小学校はありませんよという意味。牛込第三では校歌の歌詞と矛盾するわけです。

私が在学当時は区立小学校がたくさんあり、市谷小学校はここだけという意味だと習ったものです。

 

牛込第三への校名変更からわずか5年後の昭和28年に東京都新宿区立市谷小学校に校名変更がされます。この校名が現在も続くもの。戦後の混乱によって校名が一時的に変わってしまったのでしょうか。

そうなると牛込第一と牛込第二小学校はどこだったのだろう?と。ざっと調べたところ牛込第六小学校は現在の牛込仲之小学校、牛込第七が富久小学校でした。

 

昭和63年には岩手県花泉町立金沢小学校との交流が始まります。この金沢小学校交流は岩手の金沢小学校児童のお宅に夏休みに泊まって、春休みには向こうの児童が市谷小学校の児童の家に泊まるというものです。私も小学生の時に参加したのですがまさか現在も続いているとは思いませんでした。30年も継続しています。

 

私の在学中に校庭がゴムチップになり、転んでも痛くないけれど雨が降ると猛烈に滑る、校庭に。その後紆余曲折を経て現在は芝の校庭に。校舎の裏側に第二校庭を作ります。校庭の狭さが際立った学校で校庭事情はずっと懸念されていました。

私が在学中にあった小型プールも無くなりました。大阪の地震でプール塀が壊れて女児が死亡した事故を踏まえて市谷小学校のプール塀も改修することになりました。そして今年は新型コロナウィルスのためプール利用はゼロに。

 

明治、大正、昭和、平成、令和の変化を知りました。

 

会場では現在の市谷小学校校長先生と話す機会がありました。卒業生であり地元民であり保護者であり、かつ元新宿区立小学校校長の息子という立場で。色々なことを聞かせてもらいました。

今後も母校が続くことを願っています。

 

甲野 功

 

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