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~吉原神社~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 吉原神社
吉原神社

 

 

大ヒットアニメ『鬼滅の刃』。テレビシリーズ「遊郭編」が終わり、次作「刀鍛冶の里編」の公開を待つところです。「遊郭編」の舞台は大正時代(おそらく大正初期と思われる)の𠮷原。当時から遊郭があるエリアです。「遊郭編」が放送される前はその舞台から批判の声が一部あがりました。それはもちろん、遊郭を題材にする作品を子ども達が観るアニメにしていいものなのかと。実際には遊郭の厳しい裏側を適役の鬼を通じて描いています。

 

「遊郭編」が放送されたことで注目を集めた𠮷原。その吉原を象徴するもの一つに吉原神社があります。

 

𠮷原神社

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浅草寺の北、三ノ輪に向かう方向にあります。住所は東京都台東区千束。最寄り駅は東京メトロ日比谷線三ノ輪・入谷駅ですが浅草からも歩いていけます。

 

吉原神社は、かつて吉原遊郭にお祀りされていた5つの稲荷神社玄徳稲荷社明石稲荷社開運稲荷社榎本稲荷社九郎助稲荷社)と遊郭に隣接する吉原弁財天を合祀した神社です。5つの稲荷神社は吉原の守護神として、入り口の大門の手前に玄徳稲荷社が、廓内の四隅にはのこりの4社が祀られていました。稲荷神社は倉稲魂命を御祭神としており、この神様は五穀豊穣を司り“お稲荷さん”と呼ばれています。吉原弁財天の御祭神は市杵島姫命で、広く開運・財運・芸能上達などの恵みを与えてくださる神様。吉原弁財天の市杵島姫命はかつて吉原遊郭の遊女等から信仰を集めました。

 

このように現在の吉原神社は複数の神社が合わさったものになっています。その歴史は吉原遊郭と歩んできました

 

元々の吉原とは現在の台東区ではありませんでした。江戸時代の元和3年(1617年)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことから吉原遊郭がはじまります。この場所は葦(よし)が生い茂っていので、そこから「葦原(よしはら)」、それが転じて「吉原」と命名されたと言います。つまり元々は日本橋人形町にあったのでした。

しかし次第にその吉原(現在の日本橋)が江戸の中心として栄えたために、明暦の大火があった明暦3年(1655年)に千束村(現在の台東区千束)へ移転しました。それ以降、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を“元吉原”あるいは“江戸吉原”、千束に移転後の吉原を“新吉原”と区別します。

 

明治14年(1881年)に玄徳稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、榎本稲荷社、九郎助稲荷社の稲荷社が合祀され、吉原神社になります。当初は玄徳稲荷社旧地にありましたが、関東大震災によって焼失します。昭和9年(1934年)に今の場所で新社殿が建てられます。その際に吉原弁財天も合祀しました。しかし昭和20年(1945年)の東京大空襲でまたも焼失し、昭和43年(1968年)に現社殿ができて今に至るのです。

 

現地を訪れると吉原神社は非常に小さな神社で住宅街にひっそりと溶け込んでいます。拝殿には吉原神社の名前が入った提灯と並び、合祀した5つの稲荷神社と吉原弁財天の名が入った提灯が並んで飾られています。その横には境内社である「お穴様」があります。これは地中の神様で神社の土地をお守りしています。

 

吉原神社そのものよりも目立つのが飛び地境内地となる吉原弁財天本宮(吉原神社奥宮)です。吉原神社から通りを挟んで反対側、徒歩1分くらいにあります。

まず目に入るのが大きな弁財天像。慰霊碑の上に建っています。その印象は強く、吉原を象徴するものと言えましょう。アニメ『鬼滅の刃 遊郭編』でもオープニング映像に出てくる、吉原への入り口に設置された吉原大門に置かれた弁財天像。吉原遊女から信仰を集めたことが伺えます。

 

境内奥の鳥居をくぐると社殿があります。その社殿の壁には弁財天の画が描かれています。これは平成24年(2012年)に改修された際、東京藝術大学や武蔵野美術大学の学生・卒業生によって壁画や欄間彫刻が製作されたといいます。その前には小さな池があって鯉が泳いでいます。この池は弁天池の名残かもしれません。

弁財天は水と関りが深く池や海のそばに祀られることが多いのです。江ノ島の弁財天や、井の頭公園内の弁財天が有名ですね。

 

この池と吉原は深い関係があります。

 

この地は元々湿地帯で埋め立てて造成したのですが池の一部が残されました。かつての江戸の土地は多くが湿地や沼地であり、徳川家康公が整備し街づくりを行ったことで、今日の東京の礎が築かれます。上野の不忍池もかつてはもっと大きかったそうです。この吉原にも池があり、中島に弁天祠が置かれて遊郭に関わる人々の信仰を集めていました。

上記のように大正時代に起きた関東大震災でこの一帯は火事に襲われます。火から逃れようとするも逃げ場が無かった遊女たちはこの池に飛び込まざるを得ず、490名もの人が溺死しました。その池はNTT吉原ビルを建設する時に埋め立てられてしまいました。しかし弁財天を祀る小社は残され、吉原弁財天本宮(吉原神社奥宮)として今に歴史を伝えます。そこには関東大震災殉難慰霊として弁財天像、その周囲には地蔵像、石仏、供養塔が置かれています。近代史を伝える重要な史跡とも言えるでしょう。

 

吉原遊郭と歩んできた吉原神社。稲荷神社と弁財天が一緒になりました。吉原神社とともに飛び地境内である吉原弁財天とセットで訪れるといいでしょう。特に弁財天は見た目のインパクトが強く、関東大震災の悲劇を伝える場所として必見です。

 

甲野 功

 

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