開院時間
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京都。相変わらず大勢の観光客で混雑しているそうです。東京ですと中学校の修学旅行は京都・奈良が定番なのですが混雑と宿泊費高騰のため修学旅行先で京都を避ける傾向が出てきているそうです。ちなみに私の中学修学旅行は東北(岩手、青森など)でした。同じ学校で2学年上の姉は京都だったのですが。そして高校の修学旅行は中国・九州(山口、福岡、長崎、熊本ら)でした。そのため京都の修学旅行は人生で経験がありません。その代わり京都には足繫く通っていますが。
京都の寺で一番人気があるのは清水寺か金閣寺(鹿苑寺)でしょうか。他にも銀閣寺、平等院、南禅寺、三千院、東寺など名だたる名刹があります。その中で京都五山第一位として社格も規模も上位に位置するのが天龍寺。天龍寺の境内は広大で天龍寺そのもの以外にも幾つも注目するところがあります。今回は天龍寺境内にある八幡大仏、八幡社を紹介します。
八幡社。社とつくので神社でしょうか。八幡といえば神様。仏教ではありません。しかし八幡社を創建したのは夢想疎石というお坊さん(僧侶)。そして八幡大仏を祭っています。大仏は仏様。どういうことでしょうか。ややこしいのですが八幡社は八万大菩薩を祭っています。八万大菩薩が八幡大仏です。まず神道の武神とされる八幡神(応神天皇と同一視される)に対する菩薩号が八万大菩薩なのです。仏教と神道は別の宗教ですが奈良時代以降神仏習合という仏と神を合わせる考えがおきます。八幡神の別名が誉田別命とも言われ、第15代応神天皇が誉田別命。宇佐八幡宮をトップとして全国に八幡信仰の神社があります。そして奈良時代の天応元年(781年)に宇佐八幡神を護国霊験威力神通大菩薩と称したのが八万大菩薩(八幡大菩薩)の始まりだとか。八幡宮は扁額の八の字を鳩に模して書くことがあります。鎌倉のランドマークとなっている神社、鶴岡八幡宮でも同様です。そのことを知っていると天龍寺にある八幡社にある鳥居と掲げられている扁額の八幡大菩薩の文字(しかも八は鳩のシルエットで書かれている)に違和感を覚えるのではないでしょうか。さらに横には飛雲観音像があります。もちろん観音様は仏像です。
八幡社が創建されたのは南北朝時代の興国5年/康永3年(1344年)と言われており、夢窓疎石の霊夢によって祭られたとか。当初は亀山山頂にありましたが明治8年(1875年)に現在の場所に移されました。余談ですが、私は神社仏閣を紹介する際に年号を書くときは先に和暦を出して後ろの括弧内に西暦を入れるようにしています。西暦1344年は和暦でいうと興国5年/康永3年となります。これはこの頃が南北朝時代で天皇家が2つに分かれていたからです。和暦は時の天皇によって定められるので南北朝時代は南朝と北朝で天皇が二人同時にいたので和暦も2つ併記しています。このような日本史において特異な時代であった南北朝時代。この時代の興国7年/貞和2年(1346年)に夢窓疎石は天龍寺山内(境内)の十ヵ所を名勝に定めました。それを「天龍寺十境」と言います。天龍寺十境は
・普明閣:勅使門の奥にあった旧山門
・絶唱谿:大堰川の清流
・曹源池:方丈の林泉
・拈華嶺:嵐山の絶景
・渡月橋:言わずと知れた橋
・三級巖:嵐山の音無瀬の滝
・万松洞:総門から渡月橋への松並木
・龍門亭:大堰川畔の茶亭
・亀頂塔:亀山山頂にあった九重の塔
の9ヵ所に霊庇廟として八幡社を入れた10ヵ所です。つまり夢窓疎石が広大な天龍寺境内から選んだ十ヵ所に元々入っていたというわけです。明治という近代に移転してきたので当時の風景とは大きく異なるでしょうが。
では夢窓疎石とはどのような人物だったのでしょう。鎌倉時代の建治元年(1275年)に伊勢国(三重県)に生まれました。僧侶(臨済宗)であったのはもちろんですが作庭家、漢詩人、歌人の顔ももちます。特に作庭家としての実績は素晴らしいものがあります。禅庭・枯山水の完成者として世界史上最高の作庭家の一人であり、天龍寺の庭園も彼の作品なのです。宇多天皇9世孫と伝えられ血筋も高貴なものだったのでしょう。幼少時に出家します。母方の一族の争いによって甲斐国(現在の山梨県)に移住することになります。弘安6年(1283年)に甲斐市の天台宗寺院に入門し、真言宗や天台宗などを学びます。正応5年(1292年)になると奈良の東大寺へ。その後、京都の建仁寺で禅宗を学びます。法諱を「疎石」、道号を「夢窓」としました。伊勢に生まれ甲斐に移り、奈良東大寺に京都建仁寺と移動します。さらに永仁3年(1295年)に鎌倉の東勝寺で学び、次に同じく鎌倉の建長寺で教えを受け、永仁4年(1296年)からは鎌倉円覚寺で学びます。
京都と鎌倉にだけ五山制度があり、建長寺は鎌倉五山第一位のお寺です。
再び建長寺に戻るも京都に戻り建仁寺へ。嘉元元年(1303年)から鎌倉の万寿寺で学び、鎌倉浄智寺へ。各地を周り、お寺を創建していきます。時の天皇後醍醐天皇に要望により上洛し、正中2年(1325年)に南禅寺の住持となります。しかし翌年には辞して鎌倉に戻り、自らが開いた瑞泉寺へ。鎌倉幕府執権の北条家から信仰をえます。元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡すると建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれて臨川寺の開山を行いました。この時の勅使役が室町幕府初代将軍となる足利尊氏でした。足利尊氏は夢窓疎石を師と仰ぎました。後醍醐天皇、北条高時、足利尊氏と当時の権力者から慕われたのです。
建武2年(1335年)に後醍醐天皇から“夢窓国師”の国師号を授けられます。国師号は天皇から賜与されるのですが生前に生前に夢窓・正覚・心宗と三度、死後にも普済・玄猷・仏統・大円と合計七度にわたり国師号を贈られため「七朝の帝師」、「七朝帝師」と称されるのです。そして夢窓疎石は天龍寺を建立し開山となります。とにかく凄いお坊さんです。
作庭家としても各地に庭園をつくり、天龍寺庭園と西芳寺庭園は「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界文化遺産に登録されるほどです。後醍醐天皇とも、彼と敵対した足利尊氏・直義とも交流がありました。そして商人としての才覚もあり天龍寺船により儲けて天龍寺造営費用に充てたといいます。また詩人、歌人としても実績を残しています。
天龍寺の境内にひっそりとある八幡社。夢窓疎石と繋がりが深いところです。詳しい時代背景を知ると面白いです。
甲野 功
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