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~大山寺~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 大山寺
大山寺

 

 

前回は大山阿夫利神社本社を紹介しました。大山には大山寺もあります。

 

私にとっては今更なのですが神社とお寺はもちろん違います。そもそも宗教が違います。神道の神社と仏教のお寺。ところが神社とお寺の区別がつかない人は少なくありません。かくいう私も大人になるまでよく分かっていませんでした。神道の大学である國學院大學付属の高校を卒業しているのに。社会人となり会社を辞めて鍼灸マッサージ師になってから興味が出て調べるようになりました。今はきちんと説明できますし、私の子ども達にも違いを教えています。なお神社の家に生まれて自身も神主の資格を持つ芸人、狩野英孝氏は果てしない回数の「神社とお寺の違い」を説明してきたそうです。

なぜこのように神社とお寺の区別がつかないかというと神仏習合という日本独自の考えにより神様(神道)と仏様(仏教)が同一視されたり同じ施設に合わさってしまったりしてきた歴史があるからです。神仏習合の時代は非常に長く、今でもお寺の境内に鳥居があることは珍しくなく、神社の中に寺院があることもよくあります。大山も神社とお寺の両方があります。明治時代に神仏分離令が明治新政府から出されて神社とお寺は分けられるようになりました。そのような事情を踏まえて大山寺を紹介します。

 

雨降山大山寺

 

大山阿夫利神社の創建が約2200年前、崇神天皇の時代と伝わります。それに対して大山寺が開山したのは奈良時代のこと。奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝7年(755年)により創建されます。開基が良弁となります。仏教のメッカと言える奈良であの東大寺を開いた僧、良弁。彼は元々相模の国に生まれでした。相模の国とは今も地名が残る神奈川県の地域。良弁が晩年に大山に登ると石像の不動明王が出現したといいます。そしてこの大山に寺を創建するのです。寺院の正式名称は○○山△△寺と書くように仏教の中でも宗派があり○○山で示します。山ととても繋がり深いのです。訪れれば分かりますが大山はとても険しい山。険しい山にお寺を作るのはよくあることです。良弁の後を継いだ光増和尚は大山全山域を開き山の中腹に諸堂を建立します。物資を搬入するのも大変な山に建物を建てていくのです。そして3代目の住職があの弘法大師空海と伝わります。弘法大師が開祖という寺院は多いのですが住職を務めたというのは非常に珍しいです。それほどのお寺なのです。弘法大師は霊所を開いていき、現在は大山七不思議と称される霊地信仰を確立するのでした。

元慶3年(879年)に大火が起きて伽藍を焼失してしまいます。元慶8年(884年)に5代目として入山した天台宗の安然僧侶が伽藍を再興します。そして華厳宗・真言宗・天台宗の三宗兼学の道場とします。これより大山は丹沢山系の中心道場として各地に知られ霊山として栄えるようになります。

鎌倉幕府を興した源頼朝は建久4年(1192年)に太刀を奉納して平家打倒を祈願し、見事成就します。ここから「納め太刀」が始まります。納め太刀とは大山詣りの際に大山講中が江戸から木製の太刀を担いでくる風習です。

江戸時代に入った慶長9年(1604年)に徳川家光の乳母である春日局が大山寺にこもり、家光が将軍になるよう祈願します。その後に隠居した徳川家康の居る駿府に向かい、家康に直訴します。初代家康が意見して家光が3代将軍に就くことが決まります。慶長10年(1606年)に家康は大山寺を改革し、春日局は再三大山寺に参拝します。寛永16年(1640年)に徳川家光が寛永の大修理といわれる大山寺の造営に着手します。その後、大山不動参りは江戸大衆の中にも広がり定着していきます。江戸時代初期は徳川家との繋がりが深いのです。江戸時代後期の安政元年(1854年)に大山で大火が発生し、多くの建物が焼失していまいます。しかし多くの寄進によって数年で復興、再建されるのです。現在大山阿夫利神社下社ある場所にあった大山寺はそこよりも下の山の中腹に移転します。廃仏毀釈の荒波にも本尊不動明王は守られました。明治6年(1873年)に現在の場所に仮屋を建て本尊が安置され、明治9年(1876年)から不動堂の再建が着手されます。明治18年(1885年)に本堂が竣工し明王院という寺名で再興。大正4年(1915年)になり大山寺の旧寺号が復活します。

 

現在の大山寺は小田急線伊勢原駅からバスで大山ケーブル行に乗り終点へ。バス停から大山ケーブル駅まで参道を歩き、大山ケーブルで次の大山寺駅で降りて歩いたところにあります。大山ケーブルの終点は大山阿夫利神社下社があるところです。そのためケーブルで大山寺、大山阿夫利神社下社と続きます。大山阿夫利神社下社の脇から登山道に入り大山山頂まで行くと大山阿夫利神社本社があるという。神仏分離令、廃仏毀釈により場所を分けられてしまったのが大山寺というわけです。場所によるのでしょうが明治の廃仏毀釈は様々な影響を及ぼし貴重な施設や仏像が失われることになります。それを乗り越えた信仰の強さを大山寺の歴史から感じます。

 

大山寺は大山ケーブルを使わずに徒歩で訪れることができますが大山寺駅までケーブルカーを利用した方が快適です。大山ケーブル大山寺駅を出て寺に向かう道が幻想的です。私は巡りませんでしたが周囲に大山の七不思議という弘法大師縁のスポットが7か所あります。

駅を出るとすぐに十一面観音像があります。平和大観音といい世界平和を願ってのもの。

仏像が多数あるのが大山寺の特徴で地蔵や使役された鬼、梟、八大童子などの像が点在しています。

圧巻なのは急な石階段と脇に鎮座する複数の地蔵像。青紅葉と相成って奥にある本堂を守っているようです。

本堂は上で説明したように廃仏毀釈によって破壊されていたものを明治18年(1885年)に全国の信者たちの寄進によって再建されたもの。9年間かかりました。これまで幾度かの補修補強工事が行われてきました。不動明王の木の彫刻が施された珍しいいでたちです。

本尊の不動明王像は像高97.9cm、総高287cm、重量約480kgというもの。鎌倉時代の文永11年(1264年)に願行上人が鋳造しました。願行上人が58歳の時に江ノ島の龍穴にこもって鋳造しました。江戸後期の安政2年(1855)に修理が行われます。明治初期の廃仏毀釈にも奇跡的に破壊を免れ、国府津に移されそうになるのも阻止されます。昭和3年(1928年)に国宝に指定されるも戦後になると重要文化財に再指定されます。昭和48年(1973年)に昭和の大修理を行いました。

本堂左横にあるのが宝篋印塔。江戸時代の寛政7年(1795年)に旧大山寺境内に建立されたものを大正3年(1914年)に今の境内に再建されたものです。高さ約11mの青銅造り。東都鋳師西村和泉守藤原政時の作。明治初年の廃仏毀釈によりバラバラに壊されて内部のお経とともに谷底に投げ捨てられますが、大山の人々が谷底から丹念に拾い集めます。しかし精巧巨大な宝篋印塔を修復復元できす技術者が見つかず、そのまま保管されます。大正3年(1914年)に有志によって再建されました。ここでも廃仏毀釈の影響を受け、一度は破壊されるも再建された歴史がうかがえます。大正12年(1923年)の関東大震災で上半分が欠落倒壊し、3年後に有志によって修理再建されます。

鐘楼は元々徳川家光によって奉納されたものであるが、やはり明治初期の廃仏毀釈により破壊され、鉄くずとして払い下げられてしまいます。銘文「大檀那従一位左大臣源家光公」の部分のみが大山阿夫利神社に保存されています。現在の大山寺にある鐘楼は昭和24年(1949年)に賛助者らによって奉納されたものです。

 

大山という山岳信仰のある霊場にある大山寺。大山阿夫利神社と深い関係があり、神仏習合からの神仏分離令。廃仏毀釈運動という困難に遭い移転、再建を余儀なくされた。歴史的背景を踏まえて訪れるとまた見えてくるものが変わってきます。

 

甲野 功

 

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