開院時間
平日: 10:00 - 20:00(最終受付19:00)
土: 9:00 - 18:00(最終受付17:00)
休み:日曜、祝日
電話:070-6529-3668
mail:kouno.teate@gmail.com
住所:東京都新宿区市谷甲良町2-6エクセル市ヶ谷B202
日本有数の観光地箱根。箱根と一言でいってもいくつかエリアが分かれています。有名なところからあまり知られていないところまで。箱根湯本を起点として各エリアの特徴があります。芦ノ湖湖畔と大涌谷では景色が違います。宮ノ下と強羅も違います。主だったエリアを一周するのが箱根ゴールデンコースといわれるルート。今年鍼灸マッサージ学生さんを連れて早足で巡りました。そこに入らないが人気のあるエリアとして仙石原があります。かねてから仙石原すすき草原が知られていましたが箱根においてはそこまで有名ではありませんでした。1996年に箱根ガラスの森美術館が開館してから状況に変化が現れます。1999年に星の王子さまミュージアム、2000年に箱根マイセン庭園美術館(現在の箱根マイセンアンティーク美術館で強羅に移転)、2002年にポーラ美術館、2005年に箱根ラリック美術館が開館します。箱根マイセン庭園美術館が移転した後に2011年に村田アンティーク美術館が開館。この仙石原エリアには1991年に箱根武士(もののふ)の里美術館という小さな施設がありましたが、箱根ガラスの森美術館の開館以降、美術館ラッシュとなります。それまで注目されていなかった箱根の仙石原エリアが1990年代から美術館が集まるスポットとなり、強羅駅からの施設観光バスが出て美術館巡りができるようになります。箱根湿生花園やすすき草原といった自然を楽しむところが芸術を愛でる方に変化していくのです。
今回はその中から箱根ラリック美術館を紹介します。
箱根ラリック美術館は2度行ったことがあります。最初に訪れたのは2011年5月。ゴールデンウイークでした。この時期はどういうときかというと、同年3月11日に発生した東日本大震災により先行き不安な状態が日本中を襲っていました。新型コロナのときとまた違った不安。未曾有の大災害は東京や箱根にも多大な影響を与えていました。直接的な被害は無かったのです原子力発電所事故を契機に電力不足に陥り都内でも省エネ、計画停電に。放射線漏れが不安視されて海外からの観光客が消えてしまいます。この年の3月末に鎌倉に一人向かった私は、ここまで閑散とした小町通りは見たことがないというくらい人通りがありませんでした。春休みなのに。個人的な状況としては3月5日に柔道整復師国家試験を終えて、ゆっくりと次の職場を探そうかという頃。短期バイトをしているときに東日本大震災が起きました。就職活動は一時白紙となり、毎日地震、津波、原発事故のニュースが情報を占め報道以外のテレビ番組がなくなっています。先が見えない中、バイトを辞めて新卒柔道整復師として勤め先をじっくりと探すことにしました。元々ほとんど被害の無かった東京は4月になると日常を取り戻し、東京が活性化しないといけないという風潮になっていきます。4月半ばには新宿区内のクリニックでの就職が決まります。毎日ある余震に苦しめられながら新しい生活が始まりました。ゴールデンウイークになる頃には、できる人間は経済を回して東北を支援しようという流れが出てきます。そこで当時新婚だった私たちは泊まり掛けの箱根旅行を計画します。伊勢原と箱根の2泊。そのときに妻の希望で行ったのが箱根ラリック美術館でした。
箱根ラリック美術館があることは知っていましたが、当時は興味がなかったです。ラリックというのは人名だとそのときに知ったくらい。ガラスの森美術館から近いところにあるのだなと思ったものでした。それから10年以上の月日が経ち。昨年一人で二度目の箱根ラリック美術館に足を向けました。2011年5月当時、まだ結婚して間もなく子どももいなかったとき。そのときと今では感じるものが違うだろうと。新型コロナという4年に渡る苦悩を乗り越えてみて。正直な感想として最初の時に行った記憶というか印象がほとんどなかったもので。クラシックカーの前で撮影した画像が残っているくらいでした。昨年13年ぶりに単身、箱根ラリック美術館を訪れて記憶を戻し落ち着いて館内を観賞しました。
箱根ラリック美術館はフランスを代表する工芸家ルネ・ラリック(René Lalique)の作品を展示しています。ルネ・ラリックの作品の収集家である簱興行の簱功泰氏によって2005年に開館しました。約1,500点の作品を収蔵しており、そのうちの約230点を常設展示しています。
ではルネ・ラリックとは何者なのでしょうか。
ラリックはフランスで生まれたジュエリー作家、ガラス工芸家、金細工師、宝飾デザイナーです。多分野の芸術家です。日本では幕末にあたる1860年にフランスのシャンパーニュ地で生まれます。その後パリに引っ越します。1876年、16歳のときに父親が亡くなり、パリの装飾美術学校に入学します。宝飾職人に弟子入りし金細工・装飾等の技術を習い、夜は装飾美術学校で学びます。1878年~1880年の間イギリスに滞在し学んだのちに、パリに戻り1882年頃からフリーランスの金細工師・宝飾デザイナー、グラフィック・アーティストとして活動するようになります。1885年にパリのヴァンドーム広場にアトリエを構えます。1897年にレジオンドヌール勲章を受章。この時代のラリックは主に女性向けの高級アクセサリーをデザインしていました。現在大阪で万博が開かれていますが1900年はパリで万博が開かれました。このパリ万博にラリックは作品を展示し好評を博します。アルメニア人の石油王、フランスの大女優とファン、パトロンがつきます。しかしファッションの流行が変わりラリックの宝飾品は1905年頃から売れなくなります。1908年に注文を受けて香水瓶とラベルのデザインをします。またガラス工場を借り(のちに購入)、本格的にガラス工芸品の生産を始めるようになります。ガラス工芸作品を手掛けるようになったラリックは、1912年に宝飾品の展示会を開いてからガラス工芸品の製造に専念するようになるのです。50歳を過ぎてガラス工芸家に転身したのです。1918年に新たな工場の建設を始め、1922年(1921年とも)年に完成。これがラリック社の起源となります。壁面装飾パネル、シャンデリアなど、室内空間装飾をも手がけるようになります。1925年、パリでの現代装飾美術・産業美術展ではラリックのために1つのパビリオンが与えられ。アール・デコ様式の流行の一翼を担ったとされます。豪華客船や客車などのインテリアを担当し、建築物の装飾や高級車のカーマスコットなど広く活動します。日本とも関係があり、1932年に旧皇族朝香宮邸(現東京都庭園美術館)のガラスの扉やシャンデリアなどの製作を受注。室内装飾も行ったオリエント急行は1988年に日本の線路を走りました。晩年はリウマチが悪化し、1945年に亡くなります。
ラリックの生き様を反映したのか箱根ラリック美術館は純粋な美術館だけでなく、オリエント急行の展示という大きな特徴があります。特別展示オリエント急行は1929年製の実物。パリと南フランスを結ぶ「コート・ダジュール特急」として使用されていました。運行休止後にオリエント急行として復帰し、2001年まで活躍しました。2004年にスイスから箱根に運ばれてきたものです。この車両内でお茶をすることができます。『オリエント急行の殺人(オリエント急行殺人事件)』(原題: Murder on the Orient Express)で有名なオリエント急行。アガサ・クリスティのポアロシリーズの推理小説ですが人気があります。オリエント急行の実物に乗れるということだけでも訪れる人がいることでしょう。私も妻もあまり食指をそそられることがなかったのでカフェとして中に入ることはしませんでしたが。
ミュージアム本体は大きな扉が特徴的な近代建築です。この建物は2006年度日本建設業連合会主催の第47回BCS賞を受賞しています。園内はラリックの作品が並びます。
他の箱根にある美術館に多い、高低差がある土地ではなく平地にあります。外に散策路(フリーガーデン)があり、紅葉の季節は赤く色づき、初夏は緑が生い茂ります。
ミュージアムの前には広い中庭が広がり、そこを眺めるようにカフェ・レストラン『箱根エモアテラス』があります。横にクラシックカーが展示され隣はミュージアムショップになっています。
ミュージアム以外は拝観料がいりません。
今年開館20年を迎える箱根ラリック美術館。東日本大震災、箱根山噴火、台風19号、新型コロナと幾多の困難を乗り越えて残っている美術館。近隣にあった星の王子さまミュージアムや村田アンティーク美術館は閉園。仙石原を代表する施設の一つして残っています。自然と芸術、建築とオリエント急行、食事と買い物。優雅な時間を過ごせます。
甲野 功
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