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~終戦から80年~

 

 

 

本日令和7年8月15日は昭和に換算すると昭和100年の8月15日。昭和20年8月15日からちょうど80年。日本で最後に起きた戦争が終わった日です。戦後80年。そして昭和100年の年。昭和時代を振り返る機運が高まる年の節目となる日です。治療院にいると遠くから何か物音が聞こえてきました。経験上、街宣車の音だろうと思いました。調べると飯田橋付近で大規模なデモ行進があったようで多数のパトカーと大勢の警察官がいて物々しい雰囲気だったそう。ミャンマーが内戦、ウクライナがロシアに侵攻され、中東ではミサイル攻撃。台湾有事勃発に現実味がある昨今。戦争について考えます。

 

一般論とは別にして、私個人としては今年の8月15日は例年とは違うものです。戦後80年という節目ということも若干関係しますが。それは今年1月に実父が亡くなったことが理由です。東京出身なのでお盆は7月になりますが、全国的には今がお盆の時期。父が亡くなって初盆になります。父は昭和10年の生まれ。生きていれば今年90歳でまさに昭和を生きた人物でした。もちろん戦争を経験しています。

 

団塊の世代。団塊の世代とは第二次世界大戦後のベビーブーム期、昭和22年から昭和24年に生まれた世代を指します。戦争が終わり、産めよ増やせと言われた中でたくさんの赤ちゃんが生まれました。フォークソングで流行った“戦争を知らない子どもたち”です。その子ども達が団塊ジュニア(第二次ベビーブーム世代)。昭和46年から昭和49年に生まれた団塊の世代の子どもたちの世代です。私は昭和52年生まれなので団塊ジュニア世代の後に続くポスト団塊ジュニアの世代となります。他にもロスジェネ世代とかX世代とかと言われる場合も。終戦から32年経って生まれた私。同級生の親も当然のようにかつての“戦争を知らない子供たち”でしたが、私の場合は“戦争を経験した子どもたち”だった親から生まれました。私の母も戦前生まれです。ただ昭和17年生まれなのでそこまで戦争の記憶はありません。戦後の大変だった時期を少し覚えているくらい。聞いたことのある母からのエピソードは港区赤坂出身なのですが、小さいときは赤坂から富士山が見えてサトウキビが生えていてそれをかじっていたということ。赤坂でサトウキビが生えるとは到底思えないのですが。またフルーツが好きなのは父(つまり私からみた母方の祖父)が南方戦線にいたため、戦地でフルーツを食べていて父が好きだったからだということくらい。一方、父から戦時中のことはほとんど聞いたことがありませんでした。

 

私の祖父が南満州鉄道株式会社(満鉄)社員だったため、父は幼少期に当時の満州、奉天に住んでいました。その事は聞いていたのですが詳細はほとんど話したことはありません。私には。実の息子には話さず、周囲には割と話していたようで、妻や義父から当時の心境を聞いたことがありました。父は昭和の親父で寡黙だった、ということは一切なく、よくしゃべる人でした。知識や経験が豊富で膨大な雑学を私に話して聞かせたものです。単身赴任で平日は自宅にいなかった頃は休日に私を山登りに連れて行き、登山の道中に延々と話をしていました。アマチュア登山家だった父の山歩きに母も姉も参加しなくなり、小学校後半はだいたい二人で山に入っていました。一日10時間以上歩くなどざらでした。そのようなときも戦中戦後の話を私にしたことはありませんでした。奥多摩に出かけたときに、ここが疎開先だったと話したくらいでしょう。自然と戦争体験を聞くことではないと子どもながら理解していました。

 

振り返ると不自然なことでした。定年を迎え暇になったら地域の学校や公民館などで戦争体験を語ることをしそうなものです。父はそういうことをめんどくさがる人間ではなく、むしろ好きな方でした。町会長を17年勤め、町会連合の役職もしていました。葬式には呼んでもいないのにたくさんの町会関係者が現れて母と葬儀を取り仕切った私はむしろ困惑したほどです。目立ちたがり屋で人まで話すことが大好き。地域貢献活動もしていた。その父が戦争体験を後世に残すようなことは一切していなかったのです。

 

父の死後。自身の人生を本にして残すことをしていたことが発覚します。生前一切私には話していませんでした。実家を離れていましたが週二回は治療に出向いていたので疎遠だったわけでありません。話す機会はいくらでもあったのですが、全く話題にふれず。母は編集者がよく自宅に来るので知ってはいたようですが、中身は知らず。その原稿から私に語ることのなかった戦争体験が書かれていました。そこにはリアルな体験と心情が綴られていました。

満州での情勢が不安定になり、帰国することになった父たち。苦労して船で下関に到着し、東京府に戻りました。戦争が始まったときは荻窪に住んでいました。中島飛行製作所(※ゼロ戦などを作っていた。)の軍需工場のそばで、戦時中は空襲をうけます。小学生だった父は爆撃から逃げるために防空壕に避難。そして二軒隣に爆弾が落ち、地面が数十メートルほどの穴ができました。そこは一家全員が即死したと新聞報道に出たといいます。本当に空襲から逃げるために防空壕に入ったのです。爆弾の落ちる場所がずれたら死んでいた。小学生で空襲を経験していたのでした。

 

空襲を避けるために一家は疎開することを決め、奥多摩の方に移り住みます。そこでは空襲がありませんでしたが、食料も無かった。少ない配給がない。よそ者として地元の子ども達から暴行を受け。まともな便が出なくなり。人生で最も苦しい体験だったとありました。昭和20年8月15日に終戦。その直後に食糧難のため身内が亡くなります。その死が生涯ずっと父の心に影を残したそうです。この話はなんとなく知っていましたが詳細は知りませんでした。また知ったのも私が大人になってからであり、直接父から聞いたものではありませんでした。そして昭和21年が一番苦しかったとありました。戦争が終わったところで急に環境が改善することは無く、食糧難は酷かった。そして結核にかかり、いつまで生きられるか分からないような状態になります。団塊の世代が昭和22年からの子どもというのは昭和21年や昭和20年8月以降ではないわけです。戦後2年はやはり非常に苦しい時代だったのでしょう。

 

終戦後、父の家族は今の新宿区牛込に戻ってきます。それでも苦労は絶えず。鬱屈として小学生を過ごしました。中学生にあがるくらいから急激に体が強くなり人生が好転していったのこと。結核も体が強くなったせいか石灰化して発症することなくなります。そこからは戦後の復興と高度経済成長を経験していくのです。

 

父の遺した原稿に出兵した居候が登場します。戦前戦後は家に住む他人がいたものでした。父の家にもどういう関係か男性が居候していたそうです。そして出兵命令が出て軍隊に入ったそう。風の噂で沖縄戦線に配属されたとか。音沙汰がなく戦死したと思っていた。ところが戦後、その方は自宅を訪ねてきたのでした。生きて帰ってきたのです。後に父はその方とお酒を酌み交わすことになるのですが、互いに一切戦争の話をしなかったそうです。どれだけ酔っても。ですからその元居候が軍に入ってからどこに行き、何をして、終戦後戻ってきたのか父も知らないようでした。それくらい互いにとって話せることではなかったのでしょう。

 

私は父が42歳の時の子どもです。今なら珍しくもありませんが、昭和60年当時は非常に稀でした。子ども心に自分の父は周囲に比べて年をとっていると思いました。私が10歳のとき父は52歳。既におでこが大きく広がっていて。お友達のお父さんはみんな30代だったでしょう。段々と我が家は他と違うようだと感じるようになります。そして小学校高学年、中学と進み戦争のことを学ぶようになると、父が戦前生まれで戦争を経験していることが違いを明らかにしていると分かるようになります。いつ聞いたのか忘れましたが父は「自分は戦争の生き残り」と表現しました。また「戦後、体が弱い人は亡くなった」とも。その真の意味が分かるのはずっとずっと後のことになります。戦争を体験した生き残りの父だから、戦争を知らない他のお父さんと年齢だけでない違いが分かるのだと考えるようになりました。

 

私が小学校、中学校の頃。近現代史はほとんど学校で習いませんでした。幕末から後は時間切れという感じ。また特に熱心な先生がいかに日本軍は悪いことをして、中国や韓国を侵略したかを授業中に熱弁していました。自衛隊が違憲の存在であり、諸悪の存在であると。今振り返るとかなり極端な意見であり、中学校の教員が今なら絶対に許されない表現で女子生徒を引き合いに日本軍の悪さを説明していました。後に自虐史観と称されるものですが、当時はそれが当たり前でした。私としてはそこを冷淡な目でみていました。日本が戦争を起こすから、日本が戦争を放棄すれば世界は平和だという。では他国が戦争を仕掛けてきたらどうするのか。それは戦争ではないのか。ビートルズのイマジンを歌っていれば世界は平和なのか。朝鮮戦争も中東戦争も戦後起きていることはもう知っていました。そして湾岸戦争が起きて、アメリカの同盟国である日本が自衛隊を派遣させないことが問題視されます。結局PKO活動として派遣されることになるのですが、それはどういうことなのかという疑問がありました。決して詳細を話しませんでしたが身内に戦争を経験している人がいます。父は「子どもの頃は天皇が神様だと習った」と数少ない体験を教えてくれました。戦後復興してからの日本しか知らない者と、そう前を知っている者とでは、重みのようなものが違うと中学生でも分かっていたように思います。

 

社会人になってから近現代史を独学で学びました。日韓の関係、日中の関係。高校2年生から理系コースに進み、大学は東京理科大学理学部に進学した私にとって近現代史を学ぶ機会は学生時代にありませんでした。大人になってから学ぶことで色々なことが分かるようになりました。戦争とは。軍隊とは。なぜ戦争が起きるのか、起こすのか。歴史は50年経たないと冷静に検証できないといいます。当事者が生きていると思惑が介入します。私が社会人になる頃にはかなり冷静な議論ができるようになっていたのかもしれません。今では信じられませんが自衛隊は誹謗される対象でした。阪神淡路大震災以降、自衛隊の存在意義が冷静に論じられるようなったと思います。

 

政治、外交としての戦争を考えることとは別に。兵器が襲ってくるという実体験は理屈ではないのでしょう。また実際の空襲以前に食料が亡くなり餓死が現実味を帯びることも。このままなら国民が資源不足で死んでしまう。そのような結論に至れば戦争という手段をとるかもしれません。それは実体験がなければ分からないでしょう。ABCD包囲網で開戦に踏み切ったと知識では分かります。それを食糧難とは無縁な平時に学ぶのと、本当に生きるか死ぬかの状況で考えるのは違うはずです。満州に住み、空襲から逃げ、疎開して食糧難になり、身内を失い、戦後の復興を生き残った父には、戦争という実体験がありました。ずっと、文字通り死ぬまで息子に明かさなかった感情があるのでしょう。理屈と現実は異なる。歴史としての情報と実体験には大きな乖離がある。そのことを考えます。

 

終戦から80年。戦時中を生き残った父が亡くなった今年。戦争について向き合う日でした。

 

甲野 功

 

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