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~鎌倉宮~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 鎌倉宮
鎌倉宮

 

 

少年ジャンプ誌に連載中のマンガ『逃げ上手の若君』。こちらは鎌倉幕府滅亡から物語が始まり、中先代の乱を起こした北条時行を主人公とした話。アニメ化されて第一期が終了しました。第二期の制作が発表されています。時代は鎌倉時代の終わり、南北朝時代から室町時代にかけて。鎌倉、諏訪、堺、京都と舞台が移っていくのですが、やはり鎌倉が主体です。故郷鎌倉を足利尊氏に奪われた少年(文字通りの少年で10代前半)が諏訪に逃げ延び、鎌倉を奪還する話が初期エピソードです。現在も残ろる鎌倉の神社仏閣が作中に登場します。この頃に関係する護良親王を御祭神とする神社が鎌倉にあります。

 

鎌倉宮

 

場所は鎌倉駅から北東方向にあり、やや離れています。バスでは終点。その先に瑞泉寺がある山側です。紅葉の名所として有名です。創建が明治2年(1869年)と鎌倉エリアではかなり新しい神社であるため鎌倉の神社仏閣ではややマイナーな方でしょうか。

 

御祭神である護良親王後醍醐天皇の息子。その生涯は28歳と短いながら波乱万丈です。延慶元年(1308年)に尊治親王(後の後醍醐天皇)の皇子として誕生します。6歳で天台宗仏門に入ります。幼少期から非常に優秀で、仏教の聖地である京都の比叡山に入ると瞬く間に信頼を集め、わずか20歳で天台座主の地位に就くのです。座主とは僧侶の階級です。このとき東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたので大塔宮と呼ばれとか。護良親王の別名大塔宮から、現在も地元鎌倉民は鎌倉宮のことを「大塔宮」と呼ぶことがあるそうです。神社に祭られる人物が僧侶(それも座主)だったことは意外だと私は感じます。しかし『太平記』では、武芸を好み仏教の修行や学問には一切関わらず、毎日僧兵と武芸の訓練に熱心に取り組む姿が描かれています。この時代は公家の平安時代から武士の鎌倉時代に移っています。政治の中心は武士。そのトップが鎌倉幕府であり、源氏から政権を引き継いだ北条氏。天皇の天下に戻そうと護良親王の父である後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐のため元弘の乱を起こします。その最中に仏門を離れ俗世間に戻り、「護良親王」となります。護良親王は元弘3年(1333年)に吉野で鎌倉幕府倒幕のために挙兵します。護良親王は戦で負傷しこれまでだと自害しようとしたきに、村上義光村上彦四郎義光)が彼の甲冑を着て影武者として身代わりに自害して生き延びました。その後鎌倉幕府は陥落し、大勢の北条氏が自害します。このとき逃げ延びたのが幼い北条時行であり、『逃げ上手の若君』の物語が始まります。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政で護良親王は征夷大将軍に任命されます。征夷大将軍が武士以外に任命されていたことを私は知りませんでした。そもそも征夷大将軍は天皇が与える役職。武士以外にすることは理論上可能です。後醍醐天皇は足利尊氏を牽制するために武士ではなく身内を征夷大将軍に任命したのでした。かといって後醍醐天皇から全幅の信頼を得ていたわけではない護良親王、むしろ義良親王(後の後村上天皇)を帝にするためには邪魔な存在であり、結局征夷大将軍は解任され足利尊氏を討伐しようとした罪で鎌倉に流刑とされます。このとき幽閉されていた土牢とされるものが現在の鎌倉宮にあります。そして建武2年(1335年)に『逃げ上手の若君』の主人公である北条時行が足利氏を討伐するために挙兵、これが中先代の乱です。足利軍に勝ち進む北条軍を警戒した足利尊氏の弟足利直義の命令により護良親王は殺害されてしまいます。このわずか2日後に鎌倉は北条時行に奪還されるのです。

 

後醍醐天皇の子として生まれ、天台宗の仏門に入り座主となり、武芸に秀でていて、征夷大将軍を任命され、鎌倉幕府を打倒しよと挙兵し、足利尊氏を倒そうとするもかなわず、父である後醍醐天皇に疎まれ、鎌倉に流刑となり、中先代の乱をきっかけに殺害されてしまった護良親王。数奇な運命でした。時代が下り、明治維新が成ったあと武家から天皇中心へ復帰させることに尽力した護良親王への功績をたたえ、明治天皇により明治2年(1869年)に創建されたのが鎌倉宮です。社号を鎌倉宮としたのも明治天皇自らであり、明治6年(1873年)には行幸しています。場所は護良親王が幽閉されていた東光寺跡に作られました。

さほど大きな神社ではありませんが緑が深く静かな境内です。摂社があり、一つが村上社。御祭神は護良親王の身代わりとなった村上彦四郎義光。死後数百年経った明治41年(1908年)に従三位を追贈されいます。身代わりとなって自害したエピソードにちなみ、平成16年(2004年)に村上四郎義光の像を境内の樹齢103年の欅の大木で彫り上げた「撫で身代わり様」があります。そしてもう一つの摂社が南方社。護良親王の側室持明院南御方を祭ります。護良親王の身の回りの世話をし、最期は弔いました。彼女と護良親王と子どもが鎌倉妙法寺の中興の祖日叡上人です。

 

何も知らないで訪れると鎌倉のはじっこにある神社という感じですが、歴史を知った上でみると趣があります。この時代の日本史は疎いので勉強になります。

 

甲野 功

 

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