開院時間
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住所:東京都新宿区市谷甲良町2-6エクセル市ヶ谷B202
NHKの人気番組、『ブラタモリ』で京都の三十三間堂が特集されていました。時間拡大スペシャルでした。
三十三間堂は私にとって非常に重要なところ。高校を卒業する春、1996年の3月に卒業旅行の一環で初めて京都に来ました。それまで京都に興味はなく、幕末が大好きな部活の同期が希望するので京都を目的地に入れました。池田屋跡など幕末の痕跡を巡るために。それ以外の行く先は完全に人任せ。高校の修学旅行が山口県萩から福岡、長崎、熊本と中国・九州でした。中学は東北。京都も奈良も未踏の地でした。京都についてまず向かったのが三十三間堂でした。京都駅から近くて歩ける距離です。そのときの衝撃が京都好きになる原初の体験でした。今回は始まりの場所三十三間堂を紹介します。
平成8年(1996年)に訪れてから約30年後の令和7年(2025年)に再び足を踏み入れた三十三間堂。それまで何度も何度も京都に来ていましたが他の場所を優先してしまい、いつかもう一度と心に秘めながら実行に移せていませんでした。京都駅からとても近いのでいつでも行けるだろうと侮っていました。高校生以来の、無数にある千手観音像はやはり圧巻でした。
そもそも三十三間堂は天台宗の寺院であり、建物の正式名称は「蓮華王院本堂」といいます。蓮華王とは千手観音の別称なのです。妙法院の飛地境内になり、御本尊はもちろん千手観音。千体の千手観音像で有名です。
元々は後白河上皇(1127年~1192年)が自身の離宮内に創建した仏堂です。久寿2年(1155年)に第77代天皇として即位した後白河天皇。しかし、わずか3年で二条天皇に皇位を譲ります。前天皇の後白河“上皇”として30年にわたり院政を行います。後白河上皇がかの平清盛に建立の資材協力を命じて、長寛2年(1165年)に完成させたのが最初の三十三間堂です。このときは三十三間堂以外にも建物がありました。その後、建長元年(1249年)に大火で焼失してしまいます。それから文永3年(1266年)に後嵯峨上皇によって本堂のみが再建され、それが現在の三十三間堂です。京都に起きた応仁の乱を乗り越えた数少ない建築物として令和の今にもその姿を残します。京都洛中にある建物の中では、大報恩寺本堂に次いで古く、創建が鎌倉時代まで遡ることができる建物はこの2棟のみなのです。
室町時代になると室町幕府将軍足利義教の命により、永享5年(1433年)から5年をかけて本堂や仏像の本格的な修復が行われました。
桃山時代には、豊臣秀吉による方広寺造営により三十三間堂もその境内に含まれ、周囲の築地塀(現在の太閤塀)などが整備されます。豊臣秀吉は後白河上皇や平清盛の栄華にあやかろうとこの地に、奈良の大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営するのです。三十三間堂もその境内に取り込んで、土塀を築きました。その遺構が現在の南大門、太閤塀なのです。豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)に豊臣秀頼によって南大門が建立しています。徳川家康によって豊臣家が滅亡すると三十三間堂は方広寺ともども妙法院の管理下に置かれるようになります。現在も三十三間堂が妙法院の飛地境内(境外仏堂)となっているのはこのためです。
江戸時代中期の天明8年(1788年)に起きた天明の大火にも三十三間堂は焼失を免れます。なお方広寺大仏殿は寛政10年(1798年)の落雷により焼失しています。方広寺大仏殿は奈良の東大寺大仏殿を上回る当時国内最大の木造建築物でした。もしも残っていれば奈良ではなく京都が大仏の名所になっていたことでしょう。大規模な火災が近隣で起きながら三十三間堂は焼失を免れるのです。
その大きさは圧倒的。長さが120m、奥行き22m、高さ16m。国内で2番目に巨大な木造建築だそう。ちなみに最大の木造建築物は大阪万博の大屋根リングであり、世界最大のギネス記録を持ちます。大阪万博終了後には解体するという話もあり、そうなると国内最大の木造建築物に返り咲くことになります。この横長のお堂に1,000体もの千手観音像が並ぶのです。なお「三十三間」という名称の由来は間面記法で「三十三間四面」となることに由来しています。33という数字は観音菩薩に縁があり『法華経』で観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれます。江戸時代の慶安2年(1649年)から慶安4年(1651年)頃に正面に向拝が増築されています。創建当時は朱塗りの外装で、堂内は花や雲文様の極彩色で飾られたそう。
この横に長い建物を活かした催しが通し矢です。通し矢は本堂西側の軒下(長さ約121m)で矢を射通す弓術の競技。物理法則で理論上45°上空に向けて矢を放てば一番飛距離が出ます。それを天井がある軒下で行うことで、上に放って距離を稼ぐことができない状況にして、矢を放つわけです。端に的を置き何本的を射抜けるかで競うのです。通し矢は安土桃山時代に行われ、江戸時代前期に各藩の弓術家により盛んになり京都の名物行事となります。なお損傷を防ぐため、江戸時代初期に柱に鉄板が取り付けられました。通し矢のことは父が弓道をしていたのでどこかで聞いたことがあり、知っていました。最高記録は貞享3年(1686年)に紀州藩和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中、8,133本を通した記録があります。なお現在でも通し矢ではありませんが本堂横で射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われています。
三十三間堂の東側には庭園があります。東庭池泉回遊式庭園です。昭和36年(1961年)、後白河上皇770回忌記念事業の際に造園され、その後も整備がすすみ、令和3年(2021年)に保存工事が完了しています。私が最初に訪れた平成8年(1996年)にはここまで整備されていなかったのでしょう。今年歩いたときは紫陽花が咲いてとても素晴らしい景観でした。回遊式庭園には珍しい平坦な道で車椅子の方、高齢者にも優しいです。南側には太閤塀があります。早い話塀なのですが国重要文化財に指定されています。豊臣家ゆかりの木骨土造の築地塀で、高さ5.2m、長さ92.0mにも及びます。軒平瓦には「太閤桐」の文様が用いられています。かつて西側にもありましたが現存するのは南側のみに。太閤塀に接する南大門も国重要文化財。慶長5年(1600年)の建造で、豊臣秀吉により方広寺大仏殿の南門として造営されたものです。翌慶長6年(1601年)に豊臣秀頼により建てられた西大門もありましたが、明治28年(1895年)に東寺に移築されています。他にも境内には久勢稲荷大明神があります。
建物、庭園も素晴らしいのですが何と言っても三十三間堂は仏像がとてつもないのです。千体を超える仏像が三十三間堂内に安置されています。
中央にあるのが中尊の千手観音坐像。左右に千手観音像が立像でありますが、こちらは座像。ひときわ大きく像高が334.8cm、台座や光背を含めた全体の高さは7mを超えます。光背とは観音三十三応現身を表したもので、三十三応現身とは観音が衆生救済のために33種の姿に変じて現れる姿のこと。腕が左右各42本あります。千手といっても千本腕があるわけでありません。一つの手で25の苦悩を救うとされ40×25=1000で1000の苦悩を取り払うということで千手なのです。寄木造りで玉眼(水晶材)が嵌め込まれ、全身に漆箔が施された姿。鎌倉時代の三十三間堂が再建時、建長6年(1254年)に大仏師法印湛慶、小仏師法眼康円および小仏師法眼康清により作られました。国宝に指定されています。
中央の千手観音座像の左右に各500体もの千手観音立像が立ち並びます。その光景は圧巻かつ異様という感想を持ちます。階段状で10段あり、それぞれ50体の千手観音立像が並びます。10×50で計500体。それが左右に各500体ずつ。この千手観音立像は正式名称を「十一面千手千眼観世音菩薩」といい、頭上に十一の顔をつけ、両脇に四十手がある姿です。顔も手もたくさんある仏像が千体整列しています。しかも中央の千手観音座像の背後に1体千手観音立像があり、合計1,001体になるのです。全てに番号が振られており、堂内の装置を用いると一体ずつ画像で確認できます。その数から必ず自分に似た千手観音像があると言われるほど。かつては外部に置かれていましたが平成30年(2018年)に全て三十三間堂に戻りました。昭和48年(1973年)から全千手観音立像の修理が開始され、なんと45年後の平成29年(2017年)12月になりやっと全1,001体の修理が完了したのでした。修復を終えた千手観音立像はその全てが平成30年(2018)に国宝に指定されたのです。国宝になったことを期に三十三間堂に揃ったというわけです。国宝ですからそれぞれ調査がしっかりされています。建長元年(1249年)の火災の際に救い出された、創建時の平安時代に造られた像が124体。再建時、鎌倉時代に造られたものが876体。室町時代に追加された像が1体です。作者も平安時代の像を除くとかなり判明しています。
三十三間堂に安置されているのは千手観音像だけではありません。風神雷神像もあります。左右端に安置されており、風神像・雷神像ともに鎌倉時代のもので国宝に指定されています。元はインドの神様で仏教では仏法を守る役目を果たします。なお配置場所はかつて逆でしたが研究により創建当時と同じと考えられる配置に変更されています(平成30年(2018年)7月以降)。日本の風神・雷神彫像では最古のものです。
千手観音立像の前に並ぶのが二十八部衆像。24体が横一列に並び、4体が中央の千手観音座像の周囲に配置されています。二十八部衆は古代インドに起源をもつ神々で、千手観音に従って仏教とその信者を守るとされています。その28体全てが国宝に指定されています。調査の結果により平成30年(2018年)から配置や尊名が変わりました。各像に名前があり、容姿が異なります。尊名だけを列記すると、那羅延堅固、難陀龍王、摩睺羅、緊那羅、迦楼羅、乾闥婆、毘舍闍、散支大将、満善車鉢、摩尼跋陀羅、毘沙門天、提頭頼吒王、婆藪仙、大弁功德天、帝釈天王、大梵天王、毘楼勒叉、毘楼博叉、薩遮摩和羅、五部浄居、金色孔雀王、神母女、金毘羅、畢婆伽羅、阿修羅、伊鉢羅、裟羯羅龍王、密迹金剛士、と現在はなっています。
千手観音像に風神・雷神像、二十八部衆像。ここまで仏像が密集している場所はないでしょう。仏像芸術の極致という感があります。私もそうでしたが外国人観光客も唖然とした表情で無数の仏像を眺めていました。私にとって京都の原初たる場所が三十三間堂の仏像群です。
甲野 功
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