開院時間
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私は日本史、それも幕末の歴史が好きです。もともと戦国時代が好きだったのですが、高校の山岳部で同級生に幕末マニアがいて話を合わせるうちに好きになりました。参考書となったのは武田鉄矢氏原作、小山ゆう画のマンガ『おーい!竜馬』でした。土佐藩出身で幕末に奇跡的な活躍をし31歳の誕生日に暗殺された志士、坂本龍馬。この作品を通して物語から幕末を学びました。私が出た國學院高校は神道の大学である國學院大學の付属高校。日本史が非常に細かく勉強するのですが、2年生から理系コースを選んだ私はそこまで詳しく日本史を習いませんでした。山岳部の同級生は後に大学の史学科日本史専攻に進学するほど日本史に詳しかったのです。その同級生から細かい幕末の歴史を学びました。大学進学を目前とした高校3年生の春には卒業旅行として高知と京都を周りました。もちろん坂本龍馬の出身である土佐(高知県)と幕末動乱の舞台京都であり、幕末の足跡をたどる旅。人生で初めて、そして一度だけの高知県はとても印象深い思い出です。三方を山、一方を海に囲まれた四国の中でも陸の孤島のような土佐で坂本龍馬ら幕末の英雄たちが誕生したのかと思うと驚きます。その土佐藩には中岡慎太郎、板垣退助、後藤象二郎、武市半平太(瑞山)、岡田以蔵らなど坂本龍馬以外にも歴史の重要人物が多数輩出されます。そして忘れてはならないのが岩崎弥太郎(彌太郞)です。
岩崎弥太郎は三菱財閥の創始者。実業者中の実業者という人物。この時代ですと渋沢栄一と並ぶ経済界の重鎮ではないでしょうか。土佐藩は討幕側の筆頭となる藩で薩長土肥の一角。その一方、商業面でも偉人を輩出しました。坂本龍馬は日本初の会社と言われる亀山社中を創設。薩長同盟をまとめた裏には武器の売買があり、悪く言えば武器商人の一面があります。坂本龍馬の亀山社中、海援隊が解散したあと、その業務を引き継いだのが岩崎弥太郎でした。その岩崎弥太郎の長男で岩崎久彌の本邸として建てられたのが岩崎庭園です。明治29年(1896年)に20棟もの建物が建ちましたが現在は3棟だけが旧岩崎庭園として残っています。
場所は東京都台東区池之端。上野恩賜公園の近くです。現在は都立公園で入場料が必要です。建物は歴史的価値が高く国重要文化財に指定されています。現在残る建物3棟は洋館、撞球室、和館大広間です。庭園と建物の調和が圧巻で都心の上野であることを忘れさせる別空間になっています。
明治に岩崎邸ができる前の歴史をみていきましょう。天正18年(1590年)、のちに江戸幕府を開く徳川家康が江戸入城します。この頃は湿地だらけの寂れた宿町でした。徳川家康は江戸城の守りを固めるため家臣の井伊直政、榊原康政、本多忠勝、酒井忠次に要の土地を分け与えるのですが、榊原康政に奥州街道沿いの池之端の土地を与え警備させます。風水的に江戸城の鬼門(丑寅の方角:北東方向)に上野があり、寛永寺を置き鬼門封じをすることになるのです。
時代が明治時代になると西郷隆盛の部下である桐野利秋の邸宅となります。桐野利秋はもともと中村半次郎という名で幕末4大人斬りに数えられる剣の達人でした。西郷隆盛に最期まで付き従い、西南戦争で明治10年(1877年)に戦死します。翌明治11年(1878年)に岩崎弥太郎がこの場所に屋敷を構え、そして長男岩崎久彌へと引き継がれます。文献によると岩崎弥太郎が造営した庭園の構成を基本として岩崎久彌は洋館の完成後に洋館廻りを洋風芝庭に改造し、また和館廻りに書院風の庭園が増設しました。
更に時代が進んで太平洋戦争が終戦した昭和20年(1945年)。岩崎邸はアメリカのキャノン機関に接収されます。昭和23年(1948年)に旧岩崎邸を立教大学系の聖公会神学院が買い取り、和館を教室と説教場にしました。洋館は米軍が使用します。昭和28年(1953年)になると米軍と聖公会神学院双方が立ち退いた後、敷地と建物は政府所有となります。昭和36年(1961年)に洋館と撞球室が国重要文化財に指定。昭和40年(1965年)に春日通りに面した敷地約3,200坪が売却。昭和44年(1969年)に和館大広間が国重要文化財に指定。司法研修所庁舎建設のために和館の大部分を解体撤去し、昭和46年(1971年)に司法研修所が建設されます。
平成に入り、平成6年(1994年)に司法研修所の移転に伴い、文化庁に移管されます。平成11年(1999年)に煉瓦塀を含めた敷地全体と実測図がそれぞれ国重要文化財に指定。平成13年(2001年)には東京都に移管され、旧岩崎邸は都立公園として開園します。平成15年(2003年)に洋館内部の改修が完了して通年公開を開始し、今に至ります。
チケットを購入して石垣に囲まれた坂道を上っていきます。地図によると馬車道だそう。正面に見えてくるのが立派な洋館。その外観は完璧な洋館のイメージ。推理小説で殺人事件の舞台になりそうな。こちらは岩崎家の迎賓館として用いられたのでお客をもてなす顔であったのでしょう。明治29年(1896年)に竣工し、あの鹿鳴館を建築したジョサイア・コンドルの設計。近代を代表する西洋木造建築。2階建てで地下室があります。東側のサンルームは明治40年(1910年)以降に増築されています。館内には豪華な装飾が施され芸術品のよう。暖炉があるのがその規模をうかがえます。書斎、客室、大食堂、集会場、地下空間。豪邸とはこのことだと言わんばかり。外も内も立派であります。ジョサイア・コンドルは大正4年(1915年)に建替計画図を作成しましたが実施されませんでした。国重要文化財として圧倒的な存在感を出しています。
洋館とくっついて建つのが和館。洋館と同じ時期に竣工しました。和館の設計は大河喜十郎と伝えられていいます。洋館と和館を並べるこのような造りは明治期の大邸宅によく用いられた手法。洋館は接客空間で和館が日常生活空間として使い分けていました。渡り廊下で結ばれていました。元々今より遥かに大きな550坪もの邸宅でしたが昭和44年(1969年)に大部分が解体せれてしまいます。現在は大広間、次の間、三の間、茶室(待合室)、渡り廊下、便所のみが残るだけ。それでも和室の空間と日本庭園が非常に日本的で洋館との対比が素晴らしいです。建築が好きな人にはとても面白いでしょう。
3棟目の建物が撞球室です。ビリヤード室のこと。木造ゴシック様式で外観はスイスの山小屋風といいます。こちらの設計もジョサイア・コンドルのもの。中に入ることはできませんでしたが、洋館の地下室と地下通路で結ばれているそうです。国重要文化財です。
広大な庭園は大名庭園の面影を残しつつ和洋併置式とされ、芝庭をもつ近代庭園の初期の形をしています。大幅に削られましたが都心部にしては広々としています。
上野恩賜公園に比べると知名度が低い気がする旧岩崎邸庭園。その文化的価値は景観を含めて非常に高いものだと思います。江戸時代からある寛永寺や上野東照宮に比べると近代のもので新しいですが東京大空襲を逃れた名建築であることは間違いありません。
甲野 功
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