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~父が亡くなって1年~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 プレ学生さんに頂いたお花
サポートしているプレ学生さん達から頂いたお花

 

 

1月6日。父の命日です。ちょうど1年前の午前中に自宅前で倒れました。救急搬送され蘇生処置を受けて心臓は一過性で動きましたが脳死状態であり、蘇生の可能性は低く強心剤が切れて呼吸器を外せば亡くなるという状態になりました。89歳という年齢も含めて延命処置をしないという判断を、医師側とも話をして母と決断しました。あれから1年が経ち、一つの区切りになります。このあとは一周忌が控えています。一周忌の準備を母としていて、これが終わると新たな1年が始まる気がします。今年の正月は喪中であり、おめでたいことは控えていました。

 

十数年前に長女が生まれたとき。子を持つ父親になりました。大人になると誕生日は年を取った、すなわち老けた日としてあまり嬉しくなるもの。新卒鍼灸師として働いているときに高齢の患者さんに言われました。誕生日は母親が産んでくれた日だから母に感謝する日なのよ、と。そう言われてから考えを改めました。そして我が子の出産に立ち会い、それを強く実感しました。医療に携わる仕事に就き、出産の大変さを知ります。簡単な出産などありません。それと同時に上の子が生まれたとき、子を持つ父親になった瞬間でもありました。男性は出産を経験しないので父親になる自覚が乏しいといいます。しかし医学知識を得て出産に立ち会い、人生の新たなステージに立ったことを実感しました。私にとってもある意味で誕生日だなと思いました。そして1年前の今日。父親を失った者というまた新たなステージを登った気がしています。

 

1年も経つとかなり今の状況に慣れてきました。この先どんどんと普通の状態になっていくことでしょう。だからこの日に父のことを振り返っておき、この1年で自分がどのような成長があったのかを書いておきます。

 

父は昭和10年生まれ。私は42歳の時の子ども。今ならお父さんが42歳というのは珍しくありませんが、私の世代には非常に珍しいことでした。昭和52年生まれの私はいわゆる団塊ジュニア世代になります。つまり親が団塊世代。昭和22~24年あたりに生まれた親が多いのです。同級生たちの親より10歳以上離れていて、子ども心にうちの親はずいぶんと年上だと感じていました。それは髪の毛の薄さも相まって。小学生の時、故ジャイアント馬場氏をテレビで見たときに随分とおじいちゃんだなと思っていたのですが、父の方が年上だと知り結構ショックでした。

 

幼少期、父は平日自宅にいませんでした。単身赴任。週末に帰ってきて日曜日にまた出かけていく。仕事は原子力発電関係だったこともあり、どのような仕事をしているのかよく分かっていませんでした。普段は家にいない。仕事柄、原子力発電所で何をしているのか詳しいことを教えてくれない。勤務地もよく理解していませんでした。よく「お父さんは何をしている人なの?」と聞かれて返答に困り、「エンジニアです」と答えるのが最適だと小学校4年生くらいに気付きます。母は小学校教諭で、当時としては共働き家庭自体が珍しいのに父親は単身赴任という。あの頃は家族が赴任先についていく時代で、妻が専業主婦でないのは旦那が甲斐性無しとみなされていたようなものでした。

保育園も学童保育もマイノリティーで幼稚園育ちの子どもと差があり、放課後に学童保育へ行くことが周知されていませんでした。当時は気にならなかったですがいわゆる鍵っ子で家に母がいないことが周囲の家庭との違いを感じました。

父は母が教師を続けることを推奨し、単身赴任を選びました。会社では管理職にあった当時の父に、部下がある社員の妻が働いていると告げ口をしてきたそうで、父は素知らぬふりをして「それはけしからん」と答えたそう。まさか上司の奥さんが働いているとは夢にも思っていなかったのでしょう、その部下は。そのような昭和時代末期において互いが仕事をすることを選んだ両親でした。その家庭環境が私には結果的にありがたく、共働きが当たり前になったこの都心部で結婚するときに有利に働きました。相手には家庭に入って家事に専念してほしいなんて言ったら結婚できなかったでしょう。

 

大学でワンダーフォーゲル部(登山部)だった父。部との繋がりは深く、40年にわたり正月に集まる新年会をしていました。亡くなったときもワンダーフォーゲル部関係者から連絡がありました。私は物心つく前から登山に連れて行かれました。男の子は私一人。私は長男でありますが末っ子。一緒に山登りをしてくれると期待していたのでしょう。最初のうちは母、姉もついてきたのですが、そのうち母が参加しなくなり、姉も来なくなり、小学生半ばからは父と二人で登山にいくのが恒例になっていました。その際も子どもよりも自分の意向を優先させるところがあり、家族を置いて一人更に山の奥に向かったり、小学生だった私をバス停に置いてどこかに出かけてしまったりしました。昭和の男性はみんなそうだったのでしょうが、往々にして自分勝手なところがありました。その理由も随分と後になって判明します。

私が中学校に入ると一緒に山登りをすることが無くなります。父は、小学校までと決めていたのでしょう。家族が誰もついてこないので単身山登りに行くようになります。大学時代に登山中に盲腸になり激痛のまま自力で下山して緊急手術をした父。社会人になってからは本場ヨーロッパのアルプスを登りました。息子とはいえ自分のペースについてこられない私と行くより楽しかったのでしょう。中学生になると上野初の夜行列車(寝台車ではなく単に夜中走っている在来線)に乗り、深夜に駅に着き、駅まで段ボールや新聞紙にくるまり始発のバスを待ち、早朝6時台から登山を始めて午前中のうちに山頂までついて暑い午後には下山に入る。このような行程が付き合えません。時に山小屋に泊まり、電気が通っていないので日没とともに就寝し早朝(?)4時頃に起床して日の出とともに歩き出すということもあり、中学生になるときつくなりました。父も心から楽しんでいないと気付いていたでしょうし、私も子ども心に一緒についていってあげないと可哀そうという気遣いになっていました。

 

私が高校生くらいになるといつも父が家に居るようになります。親のことに興味がない年ごろ。そういえば単身赴任しなくなったな、と。後で知りますが父は会社の政治闘争に負けて現場から外されたのでした。現場主義を貫いていた父は現場にいることを求めましたがそのルートの昇進は叶わず。それならば会社に残る意味はないと50代後半で転職しました。そこら辺の詳しい事情は直接教えてくれなかったですし、高校生の私には興味がありません。サラリーマンの出世争いなど考えたこともなく、父の勤め先が変わったらしい、と他人事でした。父にとっては相当な屈辱だったのでした。東京勤務となった父は自宅から出勤するようになります。この頃からでしょう、地域活動に携わるようになったのは。気が付いたら町会長になっていました。こういうことを私に話さないのでどれも変わってからしばらくして、そういえばこうなっていたと知るのでした。

 

私が大学を卒業して新社会人になった翌年。父は定年退職。長男の社会人になったのと入れ替わるようにサラリーマン人生を終えました。子ども達は社会人となり肩の荷がおりたという感じでしょうか。母はバリバリ働いていましたし、悠々自適なセカンドライフが始まったと思ったかもしれません。

ところが私がそれを阻みます。

姉は総合職に就き(※今は一般職、総合職という区分けはないかもしれませんが女性で総合職に就くのは簡単ではなかった時代)、転勤があり実家を出ました。私はというと新社会人になり新人研修が終わったあたりから会社を辞めたくて仕方なくなります。技術職志望で入った半導体商社で技術営業部門に配属されました。聞こえはいいのですが専門技術知識を勉強しつつ営業もしろということ。私は営業担当という仕事がとても合っていませんでした。今なら分かりませんが22歳の理科系大卒社会人の私には接待や価格交渉をするのが本当に嫌。また入社した2000年頃に世界的なITバブルは弾けて業績が悪化。翌2001年には9.11テロが業界を襲います。自分とは関係のない社会情勢に大いに左右される現実を新人で思い知らされました。

体調はどんどん悪くなり休みの時期に風邪を引き、社会人3年目に麻疹にかかり9日間の入院、合計2週間あまりの欠勤となります。今日までの人生において最初で最後の入院。最初は風邪だと思っていましたが一向に熱が下がらず、町医者ではなく中規模の病院に行こうと決めました。この時点で体温は39℃近くになってまともに歩くのもままならなくなっていました。この時一緒に病院に連れて行ってくれたのが父でした。単身赴任をしていた父ですから、私の看病をするのは小学校の運動会のとき貧血で倒れて早退したとき以来です。同じく区内小学校の教諭をしていた母は同じ日に職場の運動会があり、先生側として参加していて私の運動会には来ていません。24歳になって父に病院の付き添いをしてもらうことになるとは思ってもみませんでした。父が定年退職していたからできたこと。私を診た医師は即座に麻疹だと判断し、X線(レントゲン)、CT撮影後にそのまま入院してもらいますと言いました。この時点で座っているのも苦しい私はただ言われるがまま。入院準備は父がやってくれました。

 

この麻疹はストレスによって免疫力が落ちて予防接種が効かなくなったものだと私は自覚していました。入院時に人生を振り返り、会社を辞めて新たな人生を進もうと決意します。この入院が今の治療院経営に繋がっていきます。5月に入院、そして退院した私は秘密裏に退職後の進路を模索して業界研究をします。9月末に会社を辞めて10月から勉強することを決めました。しかし両親にそのことを打ち明けられず会社を辞める前日に手紙を書いて伝えました。サラリーマン人生を全うした父と地方公務員で校長までなった母に会社を辞めるとどうしても言い出せません。まして高校、大学と私立に行かせてもらい、しかも大学は東京理科大学と文系大学よりも学費が高い。それで2年半で東証一部上場企業(※当時の表現)を辞める。親としては、やっと荷がおりたと思ったのに、という気持ちでしょう。私の方はこのまま会社にいても精神が病んでひどい結果になるし、そうなりかけたという考え。振り返ると鬱状態でした。今さら反対されても覆らない状況でしたので、会社を辞める決断を受け入れるしかない父。会社で昇進することを第一に考えていた人としては理解し難いものがあったでしょう。それならば転職すればいいという意見だったと思います。父自身も新卒で入った会社を20代のうちに辞めて原子力発電の会社に転職していますし。理系の勉強と関係のない仕事にまた学校に通って就こうなどとは。社会人となった息子は自立するどころか実家住まいで専門学校に通うようになる。父としてはまだまだ面倒みないといけないのか、と思ったことでしょう。

 

父は両親のことがあまり好きではありませんでした。父の父、すなわち私の祖父は、私が生まれる13年前に亡くなっています。ですから私は会ったことはおろか痕跡も遺影くらいしかありません。南満州鉄道で働いていて父は幼少期に満州で住んでいたことは聞いていましたがそれ以外のことはほとんど聞いたことがありません。父の口から祖父のことを話すことはほぼありませんでしたし、褒めていることも。何となく私もおじいちゃんはどんな人だったの?と聞くのは憚れました。父は母、つまり私の祖母、に対しても強く当たっていました。特に晩年は認知症、譫妄があり対応に苦労している様子がありました。実の子だからというのを差し引いても仲良しとは思えませんでした。祖母を敬う姿を見たことがなく。その理由も父の死後分かるのですが。両親に頼らないスタンスの父からすると、成人しても実家に依存する情けない息子に映ったことでしょう。姉は独立して家を出ていましたし。

 

民間の専門学校を出て、更に国家資格の鍼灸マッサージ専門学校に入学することになった私。さすがにこの頃になると、私がこの道で生きていくのだと分かるようになったようでした。それまではフリーターみたいな生活を続けてラーメン屋にでもなると言い出すのではないかと思っていたそうです(消去法でラーメン屋ができると思っているのならば失礼な話なのですが)。29歳で国家試験に合格し、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師になった私。就職してフルタイムで働くようになり。1年後には柔道整復専門学校に通いながらの勤務。また学生になっていつになったら一人前になるのだよ、と呆れていただろう頃に私が結婚すると言い出します。柔道整復専門学校1年生のとき。私は31歳になっていました。柔道整復専門学校卒業してからでもいいのでは、という意見は言わず、両親は頑張りなさいと認めてくれました。後で知りますが当人たちも結婚はかなり勢いでしたそうなので反対する気はなかったのでしょう。むしろ息子はもう結婚できないまま人生が終わるのかと諦めていたふしもあったよう。父は70歳を超えていたので無理もありません。

 

長男の私が31歳で結婚。結婚を機に私も実家を出ます。子どもはみんな結婚してやっと安心。そんな矢先。私が約4年務めた職場を辞めることを知ります。柔道整復師国家試験に専念するという理由もありますが、職場内の進路に対する不満が一番でした。昇進していってマネージャー職になっていく私。父と同様、臨床現場で活躍したい希望と裏腹に後輩育成、経営戦略、数字管理といった管理職の仕事がどんどん増えていきます。知らぬ間に複数の院を統括する方向に持っていかれていました。柔道整復専門学校の学生で国家試験を控えているのに経営や人材育成の業務が入ってきます。職場で上長との間にどんどん溝が深まり、不可逆なところまで行きました。この先はどうなるか分かりませんが、とにかくもう辞めよう、と決意します。両親からすれば結婚して落ち着くと思ったらまた職場を辞めるとはどういうことだという気持ちでしょう。私としてはここで一歩踏み出さないと、24歳の時同様心身を壊すと考えて行動しました。父の気持ちはまた安心できなくなったのでしょう。

 

柔道整復師国家試験に合格したら整形外科で働く。私はそう考えていました。国家試験に危なげなく合格し、少し休んでから就職活動だ!と息巻いていた2011年3月11日。東日本大震災が起きます。未曾有の大災害が東北を襲いました。そして福島原発事故。原子力発電の創成期から携わっていた父は報道されていること以上のことが分かります。世間が放射能と放射線の違いが分からない頃、ベクレルとシーベルトの単位に混乱する中、事態の深刻さを理解していた父は猛烈な不安に襲われていました。既に実家を離れていた私には知りませんでしたが眠れない日々が続いたそうです。夏には原子力発電技術者OBとして招集され避難地区に入って作業しました。70代後半の体で真夏の作業は相当堪えたそうです。私の心配をしている余裕は無くなりました。私はというと混乱が収まってきた4月に新宿区にある整形外科クリニックに就職が決まりました。週5日で9時~17時という待遇。東日本大震災と原発事故で社会環境が不安な中、希望通りの進路が決まりました。そして翌年には子どもが生まれることになります。父にとっては私のことは眼中になく、福島原発の状態に集中するのでした。

 

福島原発について情報収集をし、幾度か現場に入ってボランティア活動をした父。私はクリニックに就職し子どもも生まれるからもう安心と思っていたことでしょう。ところが私の混乱は続きます。就職したクリニックは違法行為をしていることが夏頃に発覚します。突然解雇された職員に話を聞くと想像以上に事態は酷かったのです。これはこの職場に未来はないと判断した私は、妻の許しを得て鍼灸マッサージ教員養成科進学を決めます。翌1月に子どもが生まれるのに4月からまた学校に入る。もちろんクリニックは辞めて。親からすれば正気の沙汰とは思えないことでしょう。卒業までの2年間どうするのかという。私としてはこの機を逃すともっと大変な状況になるという予測でした。4月に入学しないと間に合わない。2年間、教員養成科で実力、人脈、教員免許を得て卒業後すぐに開業するのが最善だと考えました。実際に教員養成科入学した後の6月、もと職場のクリニックから関係者複数名の逮捕者が出ました。夕方のニュースで一緒に働いていた人が容疑者として顔写真や動画が放送されました。3月末に辞めましたが、残っていても数ヵ月延命しただけ。中途半端な時期に放り出されるより良かったです。しかし事情がよく分からない両親からするとまだ学生になって何をしているのかという憤りがあったでしょう。子どもも生まれているのに。

 

長女が生まれて私は学生。学生だったので時間の融通が利いたというメリットもありました。子どもの急な病気や家族の大病などに私が対応できました。家族親類で最も医学知識があります。4つも医療系国家資格を持ち、更に学校で勉強していますから。また教員養成科進学で進路も開けました。学校からの紹介で大学病院の臨時職員の話が来ました。週一日ですが地方の大学附属病院で鍼灸師として働く。開業することを伝えていたことで、条件が合いました。一日だけのために片道2時間半も通勤するような人はなかなかいないでしょう。固定収入が得られるので私にとってもいい話。教員養成科を卒業し、4月から大学病院で週1日働きながら、あじさい鍼灸マッサージ治療院開業の準備を進めます。この時の父は、教員免許を取ってどこかの専門学校に教師として就職するものだと期待していたよう。開業すると聞いたときは呆れ果てて、こんなところで始めても客なんかこない、と言い放ちました。私だってこの業界に10年近くいて、開業に関して数年間考えた末の決断。博打ではなくある程度勝算がありました。サラリーマン人生を全うした父には信じられないことだったでしょうが。結局あじさい鍼灸マッサージ治療院は12年以上続いています。

 

最初は独立した私を援助するつもりだったのでしょう。マッサージをお願いするようになりました。息子にマッサージされるなど恥ずかしくて仕方ないという感じでした。ところが80歳にもなれば体の不調が目立ってきます。日本百名山全てを踏破した父もガタがきます。段々と健康のこと、病気のことを私に聞くようになってきました。あじさい鍼灸マッサージ治療院を開業して3年が過ぎる頃には私を認めてくれるようになったのではないでしょうか。体の面以外にも色々と判断力が鈍くなっていて、小さな詐欺被害にひっかかりそうになることが出てきました。一緒に新宿区の消費者センターに行ったこともありました。お墓の手入れや門松飾りを手伝うようになり、段々と父の方ができなくなっていきました。若い頃は独善的で自分の都合優先にしていたところがあった父もできることが減っていきます。晩年は外で転んで膝の皿を割る、救急車で搬送される、という事故が出てきて、私と母が対応するようになってきました。情けない息子から頼らないといけない存在になっていったと思います。

 

父が倒れた1年前。救急搬送されるときに冷蔵庫に着いていたエンディングノートを持って救急車に乗りました。以前からもしもの時のためにエンディングノート(実際には数枚のメモ書きですが)を残していました。縁起でもないとそれまで一度も読んでいませんでした。救急救命病棟に搬送されて蘇生処置がされている間にそれを待合室で読みました。作成の日付が2014年。10年前から準備をしていたのです。ここから父は何年も何十年も自分が亡くなったときの準備をしていることが明らかになっていきます。生前、俺は40歳で死ぬものだと思っていた、と話したことがありました。40歳なら私が生まれていないのですが。生き急いでパッと散ることを希望していた節があります。晩年は長く行き過ぎたと呟いたこともありました。89歳という生涯はもしかしたら父にとって長すぎたのかもしれません。

 

死後、母から言われたのは自伝を執筆しているという話。寝耳に水もいいところで、毎週2回会っていたのに父の口から一言も聞いたことがありませんでした。手書きの原稿が大量に書斎から出てきて、出版社との契約もありました。出版社からは債務として相続しなければならないと契約を結ぶことに。その作業がまた時間もお金もかかりました。なんせ当事者が一言も教えずに亡くなっているので。どうしたものか。ほぼ原稿は完成していて追加部分を作るという話で年末年始に入り作業が止まっていました。家族の意向もありつつ、主に私の一存で判断し、10月には完成しました。

この本を製作するにあたり、知らなかった父の生い立ちと心に秘めていた激情を知ることになります。東京府神田で生まれた父は父親(私の祖父)が南満州鉄道に転職したのを機に旧満州(現在の中国)に移住します。数年後、情勢悪化もあり苦労して日本に戻ってきます。荻窪で暮らしていたときに空襲に遭い防空壕に避難して助かります。住居の数軒先が爆撃で吹っ飛んだそう。疎開のために奥多摩の方に移住。極度の食糧難に苦しみます。そして終戦から数日後に4歳上の姉が食糧難により死亡。10歳の父にとって本当に苦しい出来事でした。若いときに姉が亡くなったことは父から聞いたことがありましたが具体的な死因や状況は一言も話していませんでした。さらに言えば父の口から戦争のことをほとんど聞いたことがありませんでした。普段は饒舌で豆知識を披露する父ですが、家族のことや戦争のこと、自身の若いときのことは話しませんでした。私よりも周囲に話すきらいがあり、妻の父親や母方の叔母から話を聞くことがありました。なぜ息子に話さないのか。それはきっと話したくないし、話せなかったのでしょう。自分を守ってくれて尊敬していた姉が突然亡くなってしまった悲しさと苦しみが大きすぎて。それを血のつながった子どもに話せる心情ではなかった。

 

疎開先を甲野家のルーツである新潟にせず奥多摩にしたせいで姉は亡くなった。父は両親の判断を許せなかったようです。そして戦争も。爆撃機の脅威に晒され、食糧難で家族を失った父はリアルな戦争体験があり。生涯アメリカの地を踏むことはないと決意したのでした。それを知ると生前、父の言動に対して合点がいくことがあります。実の両親に対する反発。俺は戦争の生き残りだから、とよく話していました。また、本当に良い人は戦争で亡くなってしまった、とも。それがどういう意味なのかは聞ける雰囲気ではなかったので私は聞きませんでした。本を製作するにあたり、担当編集者から様子を聞いてより理解できました。幸運にも生き残ったのだから好きなように生きる。長生きなど贅沢な望み。そんな感情を抱いていたのでしょう。大学時代は学生運動に参加し砂川闘争に関わっていた。母も知らなかったですし、当然私も知りませんでした。かつて本当に米軍と対立していたとは。父が製作していた本は私にとっては遺書。本当の心根を語ることなく文字として残したようなものでした。

 

父が亡くなり1年。相続は本当に大変でした。それでも父の祖父が亡くなったときよりはずっとマシなのでしょう。本当に生前色々なことを準備していたと分かりました。一切申し送りしていなかったから大変だったわけで。経験のなかった相続業務をして社会の仕組みがよく分かりました。面倒で逃げていたことに向き合う契機にも。大きな社会勉強で成長を促しました。そして死が身近になりました。人はいつか死ぬ。当たり前の真理が実感しました。

 

次の世代に何を残すのかという気持ちが強く芽生えています。私が20代半ばのとき。祖母、父の母親が亡くなりました。99歳。いわゆる老衰で大往生。その時、初めて父が食事を残す姿を見ました。人生で満腹になったことがないと豪語していた父が。それは生理的に本当のことかもしれませんし、戦中・戦後の厳しい過去から出た言葉かもしれません。80歳を過ぎて食が細くなったときではなく元気なときに食事を残す。そして普段は絶対にしない肘をついての食事。肘をつかないと上半身を保てないくらい疲弊していた。息子の私から見ても尊敬していないように見えた母親が亡くなったときの父の喪失感は意外なほど大きかった。人伝に聞きましたがそこからより真剣に自分の死後のことを考えるようになったそうです。振り返るとあのときの父と今の自分が重なります。

 

生きているうちに、身体が動くうちに。やれることをやっていこうという気持ちになり、今日を過ごします。

 

甲野 功

 

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