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昨年は三度も京都に行きました。一度目は次女と一緒に。二度目は紫陽花を見に。そして三度目は関西あん摩マッサージ指圧師交流会に参加するために。その前から頻繁に京都を訪問するのでかなり詳しくなってきました。訪れる場所も複数回にわたるところが増えてきました。もう一度みたい、今度こそみたい。理由は色々とありますが懐かしさを求める場合と前回の悔しさを晴らすための2パターンです。一度訪れて今後こそと思う京都の名所に銀閣寺があります。最初に訪れたのは新婚時期の17年前。妻と夏にした奈良京都旅行のとき。そのときは改修中だったのです。昨年11月の京都訪問では再度銀閣寺を参拝してきました。
銀閣寺という名称は通称で正式には東山慈照寺といいます。金閣寺の対になる(金に対して銀)ものとして江戸時代から呼ばれるようになったとか。創建自体は江戸時代よりももっと古いです。なお金閣寺も通称で正式には鹿苑寺。銀閣寺(東山慈照寺)は相国寺の塔頭寺院の一つ。そして金閣寺(鹿苑寺)も同様に相国寺の塔頭寺院。では相国寺とは。相国寺は京都にある寺で臨済宗相国寺派の大本山。京都五山第二位という名刹。京都五山とは臨済宗のお寺で格式ある五か所のことで別格に南禅寺、第一位が天龍寺でその次に相国寺が続くのです。その相国寺の塔頭が銀閣寺、金閣寺。塔頭寺院は何かというと、大寺院の境内やその周辺に点在する独立した小規模な寺院をいいます。銀閣寺は相国寺境内にはない山外塔頭寺院となります。銀閣寺や金閣寺レベルの塔頭があることが相国寺の格式がうかがえます。
銀閣寺の正式名称、東山慈照寺。頭の東山は“とうざん”で“ひがしやま”とは読みません。なお京都の東に連なる山々は東山(ひがしやま)といいます。お寺には山号というものがあります。寺院の多くは山にあったので○○山という山号が付くのが一般的。有名なものでは成田山新勝寺や比叡山延暦寺。ここでの成田山、比叡山は山号で山の固有名詞ではありません。慈照寺の山号が東山(とうざん)です。
また慈照寺境内にある観音殿が銀閣です。国宝に指定されており、私が最初に訪れたときは改修中でした。観音殿の別名が銀閣。そして鹿苑寺(金閣寺)の舎利殿を金閣と称します。ここに西本願寺境内にある飛雲閣を合わせて「京の三閣」と言います。そのうち西本願寺にも足を運び飛雲閣もみてみたいものです。
細かく言葉の意味を調べてみると知らないことが多かったです。
銀閣寺は、金閣寺もそうですが、室町幕府将軍足利氏との関連が深いです。源頼朝は鎌倉に鎌倉幕府を作り、徳川家康は江戸に江戸幕府を作りました。この京都には足利尊氏が室町幕府を開きました。京都と足利氏は切っても切れません。銀閣寺は室町幕府8代将軍足利義政によって造営された山荘東山殿を起原としていますが、その前から歴史があります。平安時代に天台宗の浄土寺がこの地にありました。
足利義政は6代将軍足利義教の息子。足利義教は嘉吉元年(1441年)、守護大名赤松満祐に殺されてしまいます(嘉吉の乱)。そこで足利義教の嗣子、義勝が8歳で将軍職(7代将軍)を継ぎますが、わずか10才で夭逝したため、次に選ばれたのが足利義政でした(8代将軍)。この時、足利義も義勝同様8歳という幼子。将軍職につくも情勢は混乱していき、義政を取り巻く近臣たちはそれぞれ私的な利害関係に走り私腹を肥やすものが増え、足利義政は身を引くことにします。義政は浄土寺に出家していた弟を呼び戻し、足利義視と名乗らせ将軍の後継者としました。ところが翌年、義政に息子義尚が生まれます。義政の妻富子は我が子義尚を将軍に就かせかせるべく山名持豊(宗全)に頼ります。一方、後継者とされた足利義視を支持するのが細川勝元。両者の衝突が11年間続くことになる応仁の乱(1467~1477年)の発端になります。京都全土に波及した応仁の乱により浄土寺は焼失します。
応仁の乱後の文明14年(1482年)、足利義政は浄土寺跡地に東山山荘の造営に着手。翌年に完成すると、義政は将軍職を嗣子義尚(第9代将軍)に譲り、この地に移ります。文明17年(1485年)に出家したのです。元々は祖父で第3代将軍足利義満が北山殿(後の鹿苑寺)を造営し、将軍職を譲った足利義持を後見したことに倣って山荘造営を計画しました。足利義満の北山殿に対して義政の東山殿が建築されていきます。長享3年(1489年)には銀閣(観音殿)の立柱上棟が行われますが、義政は病に倒れその完成を見ることなく亡くなります。義政の死後(1490年)、菩提を弔うため遺命により東山殿は禅寺に改めて慈照寺となりました。開基(創立者)が足利義政、勧請開山(※開山は開創した僧侶のこと。勧請開山は本来その寺の開山でない僧を開山として信仰すること。)は夢窓疎石、本尊は釈迦如来になります。その後、戦国時代に入り、銀閣寺こと慈照寺は天文19年(1550年)に銀閣と東求堂を除き焼失。室町幕府の衰退と共に荒廃していきます。戦国時代を経て江戸時代初期の慶長20年(1615年)に宮城豊盛による大改修がなされ、今日まで残ります。
昭和27年(1952年)には庭園が国の特別史跡および特別名勝に指定、平成6年(1994年)には「古都京都の文化財」としてユネスコ世界文化遺産に登録されています。
京都でも名高い銀閣寺。見どころがたくさんあります。総門を通り抜け中門までに長さ約50mの参道があります。銀閣寺垣と呼ばれる竹垣で囲まれています。総門は寛政12年(1800年)に中門は寛永年間(1624年~1644年)に再建されました。
本堂にあたる方丈は寛永元年(1624年)に再建されました。御本尊が安置されています。内部にある襖絵は与謝蕪村、池大雅が描いたもの。
観音殿(銀閣)とともに、東山殿造営当時から現存するのが東求堂です。文明18年(1486年)の建立。国宝に指定されています。持仏堂(阿弥陀如来を祀るところ)である阿弥陀堂として作られました。その周囲は禅宗様式庭園になっています。
銀閣こと観音殿。長享3年(1489年)の建立で国宝に指定された東山殿から残る建築物。木造2階建ての楼閣建築で錦鏡池の畔に建ちます。足利義政の祖父にあたる足利義満が建てた鹿苑寺舎利殿(金閣)に倣って建てられましたが、銀閣には銀箔は貼られていません。2008年2月から2010年3月まで大規模な修復作業が行われました。私が最初に訪れたのがこの時で観音殿を観ることができませんでした。
建物以外に目を引くのが砂盛り。方丈の前には白砂を段上に盛り上げた銀沙灘が。ストライプ状になっていて波紋を表現しています。月の光を反射させるためと言われています。そこにそびえたつのが向月台。白砂を円錐台形に盛り上げています。この向月台と下の銀沙灘が白く輝き銀色を彷彿されるので銀閣になったのでは、と私は夢想します。
見応えがあるのが国の特別史跡、特別名勝に指定されている庭園です。錦鏡池を中心とする池泉回遊式庭園で高低差もあり歩き応えがあります。高台から見下ろす境内と京都の街並。漱蘚亭跡の崩れかかったような珍しい石組。ぐるっと登って降りてくると簡単な山歩きをした気分に浸れます。庭園の中心となる錦鏡池には7つの石橋が架けられています。その中の仙桂橋は室町期に作られた唯一の石橋。
京都の歴史、特に室町幕府と足利家にまつわる、銀閣寺。足利義満の金閣寺と比較される足利義政の銀閣寺。派手さは薄まりますがわびさびがより感じられる名刹です。二度目の参拝はちょうど紅葉の季節でした。美しい四季折々の自然に囲まれてシーズンごとにその印象を変えます。
甲野 功
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