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~棚橋弘至引退~

KAMINOGE No.163 表紙
KAMINOGE No.163 表紙

 

 

今年1月4日。東京ドームで新日本プロレス社長棚橋弘至選手がプロレスを引退しました。

 

私は中学2年生のときからプロレスファンです。中二病という言葉があるくらい思春期の鬱屈した時期。学校内で活躍の場がないと感じていたあの頃。いわゆるスクールカースト下位にいる感じでした。身長が170cmに迫ろうかという小学校6年生でした。ランドセルと黄色の校帽が致命的に似合っていません。声変わりをして低くなった男の子には可愛げがありませんでした。中学に入り学ランを着るようになると小学校と環境が変わって自分が出せなくなっていました。最高学年だった小学校から一番下の学年へ。自分よりももっと大きい同級生や先輩。別の小学校から合流した知らないクラスメイト。諸事情により小学校4から6年生の3学年でクラス替えがなかったので3年ぶりに知らない人が同じクラスにいます。

 

算数が数学に変わり、英語が授業に入るようになり(平成初期の頃は英語は中学校からでした)。うまく自分を出せないという葛藤がありました。勉強は真ん中くらいの成績。運動は球技全般ダメで走るのも得意ではない。得意な山登りは林間教室くらいしか発揮されない能力で、4年間水泳教室に通った泳力も水泳部がないので部活に活かせず。Jリーグ開幕前で野球こそがオンリーワンの人気スポーツ。野球のできない男子は人権がないくらいの扱われかたオタクというのは気色悪い存在で全員が右にならえの多様性という概念が皆無の頃人生で最も戻りたくない時代は間違いなく中学生。思春期特有の苛立ちも加わり、煮え切らない日々でした。クラスの人気者がプロレスが少し好きで、影響を受けて見始めてみたら虜になりました。プロレスは冴えない中学生に勇気を与えてくれました。熱狂的に好きになり、専門誌や本を買って知識を増やし歴史を学びました。プロレスファンは野球ファンに比べれば数が少なく、あんなものは八百長だろと言われて肩身の狭い思いをしていました。それ故に逞しく熱狂的。プロレスファンという居場所を得てから周りの目が気にならなくなりました。大学で学生競技ダンスに出会うまでは人生の大きな支えでした。

 

大学に入ると社交ダンスと出会い、練習の日々になります。プロレスは変わらず好きでしたが観るものであってやるものではありません。世界が違い過ぎてプロレスラーになろうなどとは考えられません。大学で自分ができる社交ダンスと出会ったことで、水泳と山登り以外に体を動かせるものができました。私生活の情熱はプロレスから学生競技ダンス連盟(学連)に1位が変わりました。大学4年生の時が1999年。その年に棚橋弘至は新日本プロレスでデビューしました。立命館大学の学生プロレス出身。学年が1学年上で大学卒業後に新日本プロレスに入門。同年デビューしました。棚橋弘至は新人時代に東京ドーム大会の前座でその姿を生で見ています。2000年くらいでしょうか。私は社会人になるとよりプロレス観戦から離れていってしまいます。ギリギリ生観戦した世代の選手です。言い換えると前座時代に観た選手で、しかも同世代(1歳違い)の選手が引退してしまうことに戸惑いがあります。

 

棚橋弘至。引退特集番組が組まれるくらいのトップ選手。現在の新日本プロレス社長ですから会社としても超重要人物の一人。東京ドームで引退試合できるプロレスラーは本当に一握りのトップしかいません。アントニオ猪木長州力獣神サンダーライガー武藤敬司。あとはジャイアント馬場が死後引退セレモニーを東京ドームで行いました。東京ドームのメインイベントで引退試合を行うことができた選手はほんの数人です。その一人に棚橋弘至は入りました。対戦相手はアメリカで活躍するオカダカズチカ。新日本プロレスでスター選手となりアメリカの団体AEWに移籍。普段はアメリカを主戦場にしているオカダカズチカが棚橋弘至引退試合のために久しぶりの帰国。この1戦を知り、会場に行ってみようかと私は思いました。その時点で東京ドームのチケットはなく。いわゆる札止めという状態。いつ以来か分からない快挙です。

 

棚橋弘至がトップ選手になる過程は暗黒期と言われるような新日本プロレス不遇の時代。最後に東京ドームを超満員してリングを去りました。

 

新日本プロレスを、というより日本のプロレスを観てきた人なら常識のような話ですが、低迷してどん底にあった新日本プロレスを立て直した立役者が棚橋弘至でした。引退前の特集や当日の中継でも紹介されていました。私はリアルタイムでそれを見ていました。力道山が創設しジャイアント馬場と共に所属していた日本プロレスという団体から追放されたアントニオ猪木。そのアントニオ猪木が創設したのが新日本プロレス。日本プロレス崩壊後にジャイアント馬場が創設したのが全日本プロレス。もう一つ国際プロレスという団体がありましたが解散。現在、日本にある主なプロレス団体は新日本プロレスと全日本プロレスのどちらかにルーツがあります。女子プロレスは独立して存在。新日本プロレスは幾度のブームと低迷期を繰り返します。アントニオ猪木、タイガーマスク藤波辰爾、長州力、武藤啓司などのスター選手が引退、退団、体力の衰えなどにより人気が低迷することはあるのですが、棚橋弘至が入団してからの低迷は意味が違いました。格闘技ブームが誕生しキングオブスポーツを謳っていた新日本プロレスが窮地に陥ります

 

アントニオ猪木はかのモハメド・アリを筆頭に何人もの他ジャンルのスポーツ選手、格闘家と異種格闘技戦を行って人気を博してきました。そこにキックボクシングをベースとした立ち技のK-1、グラウンドありの総合格闘技PRIEDが台頭してきて新日本プロレスはファンを減らしていきます。日本の総合格闘技は、メジャーなところは大体プロレスラーから始まっています。新日本プロレスから派生した格闘技寄りのUWF。UWFを去ったタイガーマスク(初代)こと佐山サトルが格闘技団体修斗を設立。UWFにいた高田延彦ヒクソン・グレイシーと戦うためにできたイベントがPRIED。UWFにいた前田日明の団体に出ていた佐竹雅昭をエースに創設されたK-1(旧)。多くのプロ格闘技イベントはプロレス団体UWF、ひいては新日本プロレスのアントニオ猪木に源流があります。新日本プロレス道場でアントニオ猪木らに鍛えられたレスラーが格闘技色の強いUWFを作り、それが分裂しプロレスから格闘技に移行する選手がいました。今は別のものとしているプロレスと格闘技が日本では地続きでした。厳密云うと新日本プロレス系と格闘技が。アントニオ猪木に熱狂したファンたちは格闘技イベントに移行していきます。何よりアントニオ猪木が自身が創設した新日本プロレスを去り、格闘技団体の方に行ってしまいました。2000年代は大晦日に格闘技イベントが生中継されていて、2003年にはキー局3局で同時間帯に格闘技を放送するという異例事態に。新日本プロレスのレスラーも大晦日の格闘技戦に駆り出されて惨敗することがありました。反対に無名、中堅、若手選手が格闘技戦で勝利をおさめて新日本プロレスで大人気になるという現象も。新日本プロレスが格闘技イベントの下位互換に見えるような状態になっていました

 

対してジャイアント馬場の全日本プロレスは異種格闘技戦や格闘技とは基本的に交わろうとせず(一部例外があり)プロレスに専念していました。ジャイアント馬場が亡くなると全日本プロレスのほぼ全員が三沢光晴率いるNOAHに移籍します。この頃の新日本プロレスはファンが格闘技の方へ流出し、プロレスファンはNOAHを観るので、観客動員数が激減していました。格闘技路線に反発した当時のトップ選手、武藤啓司は複数の選手とスタッフとともに全日本プロレスに移籍。同じくトップ選手だった橋本真也は新日本プロレスを退団。長州力は新日本プロレス古参スタッフとライバル団体を設立。団体を背負うトップがどんどん離脱し新日本プロレスのライバルになっていくのです。そんな時代に若手だった棚橋弘至。新日本プロレス愛が強く、武藤啓司に移籍を勧められたが断ったといいます。企業に身売りして団体存続にこぎつけた新日本プロレス。肝心のリング内が充実してお客を呼べないといけません。それを矢面に立って建て直した当事者が棚橋弘至。

 

派手なリングコスチューム、派手な髪形。ノリの良いキャラクター。昭和の新日本プロレス、全盛期のアントニオ猪木に心酔したファンが嫌うことをやりますこんなものは俺たちの知っている新日本プロレスではない長州力はこんなことはしなかった。そのような批判を受けます。後に新日本プロレス親会社となるブシロード木谷社長は「すべてのジャンルはマニアが潰す」といった趣旨の発言をしました。いわゆる古参ファンが新規ファンの流入を妨げ、新陳代謝を阻害させる。棚橋弘至は新しい新日本プロレス像を創り上げるために努力しました。そして新しいファンをつくる。批判されようとも女性受けのするようなパフォーマンスをする。イベントに参加していわゆる営業活動をして顔を売る。プロレスはよく知らないけれど棚橋弘至を観に来てほしい。まず棚橋弘至個人を売るという草の根活動をしました。もちろんトレーニング、試合をしながら。段々と女性ファンが増えるようになり、観客動員数が戻ってきます。

 

新日本プロレスのトップ選手は多くが退団しています。戻ってくる場合もありますがデビューからずっと新日本プロレスに残る選手は少なくっています。これまでに挙げた選手以外にも棚橋弘至と同世代の中邑真輔は世界最大プロレス団体であるWWEに移籍、柴田勝頼も退団しました。棚橋弘至は新日本プロレスを出ることなく、現在は新日本プロレスの社長に。社長業に専念するための引退でもありました。

 

プロレスラーとしての功績はもちろんですが、ファン獲得のための行動が評価されています。地道な、いわゆるどぶ板営業を率先して行った。しかもまず自分のことを覚えてほしいと。今の私にはその方が賞賛します。会場に来てもらわなければどれだけ素晴らしいプロレスをしても意味がありません。観てもらわなければ。出口の前に入り口。入ってもらうために。それを自分の時間を削ってやってきたこと。その上でプロレスを観た人をファンとして定着させた。棚橋弘至以前の新日本プロレスではこのような選手はいませんでした。スポンサーやタニマチを接待するものはいても、不特定多数の一般客を会場にきてもらうために営業活動したトップ選手は。新しいプロレスラー像を作り、文字通り棚橋弘至以前・棚橋弘至以後と言えます。

プロレスラーとしてリング上で実績を出しました。チャンピオンになり呼び込んだ観客をファンとして定着させ。後輩の壁となりオカダカズチカをトップ選手に引き上げる役割を担いました。テレビのバラエティー番組に出演してタレント業にも精を出し、更なる世間への新日本プロレス認知に尽力。そして新日本プロレスの社長に就任しアントニオ猪木、藤波辰爾に続く現役プロレスラー社長へ。次なるステージはリングを去り社長業に専念し経営にしっかりと携わる。類まれなるキャリアを進んでいます。

私がいつも読んでいる専門誌『KAMINOGE』では、棚橋弘至は一番アントニオ猪木のイズムを継いでいると評していました。ファイススタイルは真逆のようで身を粉にして世間に訴えかけ、プロレスを周知させ人気を出す行動をしてきた。そして成果を残している。いち個人事業主としても、プロレスファンとしても大いに納得できる意見でした。

 

私が最も好きだったプロレスラー三沢光晴は団体を旗揚げし同じくプロレスラー社長として活躍しましたが、リング上の事故で亡くなりました。東京ドームのメインイベントで引退試合ができ、社長業に専念することになった棚橋弘至氏には更なる業界を発展させてくれることを期待しています。

 

甲野 功

 

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