開院時間
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父の一周忌法要を行いました。昨年1月6日に急死した父。小学休みが明けた月曜日の午前中でした。それから1年。一周忌法要を檀家寺で行いました。これまで葬祭を取り仕切っていたのは父。昨年の葬式、納骨と初めてのことばかりでした。一周忌法要も1年経つからやらなければという考えでした。きちんと調べてみると命日の前の土日に行うということらしいのですが、それで年末になってしまうので1月になってからが妥当だろうと判断しました。そしてとても近い親族の予定を確かめると1月末になりました。
喪主は配偶者である母になりますが、年老いてきて様々なことができなくなってきています。具体的な準備を私が担いました。そもそも父が残した遺言書には葬祭は私が担当するようにと指定されていました。しかし母も戦前の生まれ、取り仕切らなければならないという使命感があります。どこまで任せるのか難しいところがありました。昨年12月の年の瀬から準備を開始してやっと当日を終えたと安堵したものでした。
日程が決まってから誰を呼ぶのか。母は父に関係する項目をいつくか挙げてお声がけする方をピックアップしました。親類の他に高校の同級生、大学部活関係者、地域関連。父の同級生は当然同い年ですから高齢です。昨年89歳で亡くなった父の同級生ですから90歳になっています。参加できる方は限られます。地域関連は、16年に渡り町会長を勤めた父が住居地域で関りがあった方々。父と直接関係があった方以外に、関係者の子どもという次世代の方もいました。私と手分けをして電話やメール等で参列者を確定していきます。参列者名簿を私が作成しました。半分ほど私にはよく面識のない方。
当日の流れを母と決めます。開始時間の関係で会食はしないことに決定。その代わり読経の後に待合室で懇談をしようと母が希望しました。父のことを話してもらう。高校、大学、地域。もちろん喪主として母も挨拶します。小学校教諭だった母にとってはとても慣れたもの。母の強い希望でした。母の人選でスピーチしてもらう人を選びます。また母は元校長ら
しく挨拶のためにメモを事前に作成していました。
当日は13時からの開始。午前中は私がPTA本部役員の会議があり、早退して帰宅。喪服に着替えて実家に行きます。父の遺影と白木位牌、それに父が著した2種類の本を10冊ほど持ち運びます。母はお花を。もう足が相当弱っているためタクシーでお寺に行くためタクシーアプリを使いました。呼ぶ時点で行き先を登録するのですが、マップが裏口を示してしまい、とんでもないところに着いてしまいました。大通りに面して入り口があるのにわざわざ細い路地を通って。足が悪いからタクシーを呼んだのにぐるっと歩いて回らないといけなくなるのでもう一度、大通りに出てもらいました。立派な門があるのに。余計な時間と運賃がかかってしまい出鼻をくじかれました。ずいぶん前に私の祖母の法事でもタクシーでトラブルに遭ったのです。その時はトランクに荷物を入れていたのですが、我々を降ろしたらトランクを開けずにタクシーが走り出したのです。私は急いで追いかけてトランクを叩いて停車させました。同じところで二度もタクシートラブルがあるとは。
お寺が立派なのは素晴らしいのですが車から降りてからが歩きます。私には何の問題もないのですが足が弱った母にはかなり大変。エレベーターが分かりづらいところにあり階段を登ることに苦労。待合室に辿りつくのもなかなか大変でした。それは参列者も同じで私は入り口で案内役をしたのですが階段を登ることに必死な方が多く手を貸して誘導しました。バリアフリーの大切さを思い知ります。事前に下見をしておけば良かったと反省です。また法要のやり方も分かっておらずお寺に言われて知ったことがありました。相続や実家の整理で1年追われていたことを言い訳に葬儀関連のことを調べていなかったことが露呈してしまいます。父は教えてくれなかったなと今になって思ってしまいました。
読経は恙なく終わりました。幼いときはお経が長くて長くて辟易としていましたが当事者になるとあっという間に終わりました。周囲に気を配らないといけないという気持ちが強いためです。
読経が終わると待合室に戻り母の挨拶から故人を偲ぶスピーチの時間へ。大事なところで言葉が出てこなくなってきている母が父のこと、父の仕事のこと、地域活動のことを語ります。やや危なっかしいと私は冷や冷やしながら聞いていました。昨年の葬儀ではとても重要なことを思いっきり間違って述べていて、ここでも変なことを言わないかと。きっと私が小学生のときの姿をこのような気持ちで見ていたのだろうなと思います。
現在の町会長、地域の方のお話。父が町会長時代にしたこと。会費を徴収せずに資源回収をすることで町会の財源をまかなう仕組みを作りました。現町会長に引き継ぐときは詳細な手書きのメモを渡したそう。パソコンを使わないのが父らしいです。さらに地域の秘話も。かつての都内で唯一、町会が存在しない場所で警察署から再三町会を発足させなさいと催促されていたとか。新たな情報でした。
高校生の同級生。数名が参列しました。父と同級生ということは90歳前後。高校時代のエピソードを語りました。私を含めた子ども達はもちろん母も知らない10代の姿。高校男子らしいバカげたことをしていたそう。また高校の同窓会にも尽力していて理事を務めていました。
大学の部活関係も複数の参列者が。父の後輩で、父のことを特に敬愛し部の機関誌に追悼文を寄せてくれた方が話しました。約90年の生涯で大きく3つのパートに分けられると。27歳までの時期。大学を卒業して企業に就職し、27歳の時に以前から注目していた原子力発電の会社に転職する前まで。次が27歳から57歳まで。原子力の仕事に従事し57歳で早期定年退職して別の会社に移るまで。最後が57歳から晩年まで。この3つの期間を全て知る者は誰もいないでしょうと語ります。確かにそうだと思います。母も私も。大学で部活と共に学生運動でアメリカと闘争したという父。本人は社内闘争で敗れたと語りますが、実際には一般社員が昇進できる最後の役職まで上り詰めたといいます。57歳以降は隠居した気持ちとなり余生を過ごす気持ちだったのだと。家族ではないから分かること、知ることがあるのだと私は納得しました。色々な顔を持ち掴みどころがない人だったという捉え方。確かに多趣味で複数の業務(仕事以外で)をこなし肩書が多かった父。何者なのかというと一言では語れない(特定できない)人。長男の私が感じることですが生涯本当の心根を語ることはなく、むしろ周囲の後輩に語っているところがありました。きっと私達家族が知らないことを聞いてきたのだろうなと、語りを聞いて思いました。
私は父が42歳の時の子。物心がつき、物事がある程度分かるようになったのが中学3年生とするならば、父のことは人生の3パート目以降だけを知っている感じ。この一周忌法要でそのことを理解しました。これで一つの区切り。自宅の整理がまだまだ残っていますが段々と父の痕跡が消えていくと思います。今を生きる人はどんどん上書きされていきますし、自然と父を知る同世代も減っていくわけです。私の人生もまだまだ続いていくはず。三回忌にはどのような状況になっているのか。そんなことを考えてしまいます。
解散してお寺を後にする際に。母に最期の確認として、住職にお布施は渡したよね?と声を掛けます。もちろんよと答えるのでお寺に挨拶して出ました。私は仕事があるので治療院に戻り、母たちは食事をして帰るといいます。治療院に戻り仕事をして、終わった夕方過ぎ。母から電話があり渡すはずのお布施がカバンに入っていたと言いうのです。手渡していなかった。今から届けにいくというので、それは色々と危ないので今から私がお寺まで届けにいくといい、実家に行きお布施を持ってお寺に再び行きました。やっぱりなと思ってしまいました。
甲野 功
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