開院時間
平日: 10:00 - 20:00(最終受付19:00)
土: 9:00 - 18:00(最終受付17:00)
休み:日曜、祝日
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住所:東京都新宿区市谷甲良町2-6エクセル市ヶ谷B202

最近、日本仏教の13宗派についてブログで書きました。弘法大師空海が開いた真言宗には、高野山真言宗、東寺真言宗、真言宗智山派、真言宗豊山派などの派閥があります。総本山として和歌山県金剛峯寺と京都東寺(教王護国寺)を挙げました。そして智山派の総本山が京都にある智積院です。
私は智積院のことは知らず、昨年京都の紫陽花を巡る旅に出た際に、あじさい園があると知って出向きました。三十三間堂の近くで、三十三間堂を訪れる前に行っておこうという気持ちでした。紫陽花目当てで訪れたのですが、その境内の規模と立派な造りに驚いてしまいました。京都の神社仏閣はかなり知っていると思っていたのですがこれほどの寺院があるのだと自分の知識の浅さを感じたものです。
智積院は、改めて真言宗智山派の総本山になります。智山派に属する寺院は全国に約3000余。その大本山寺院には、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、東京都八王子市の高尾山薬王院、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺があり関東の有名な寺院が該当します。別格本山として東京都日野市の高幡山金剛寺(高幡不動)、愛知県名古屋市の大須観音寶生院があります。関東三大不動尊とされる新勝寺、薬王院、高幡不動が智山派。その総本山と考えると納得の規模です。正確には山号が五百佛山で寺号は根来寺になります。御本尊は金剛界大日如来です。
智積院の成り立ちはなかなか複雑です。もとは紀伊国根来にある大伝法院(現在の根来寺)の塔頭でした。大伝法院は真言宗の僧侶覚鑁によって大治5年(1130年)に高野山に創建されたお寺です。覚鑁は教義上の対立により高野山を去り、保延6年(1140年)に大伝法院を根来に移して新たな教義の真言宗を打ち立てます。智南北朝時代にこの大伝法院の塔頭として真憲坊長盛という僧が建立したものが智積院です。根来山内の学問所でした。
戦国時代に根来寺は豊臣秀吉と対立します。織田信長も比叡山延暦寺を焼き討ちにしており、寺院、僧侶と戦国武将の対立は珍しくありません。天正13年(1585年)の豊臣秀吉による根来攻めにより全山炎上してしまいます。このとき智積院の住職であった玄宥は根来攻めが行われる前に、弟子たちを引き連れて寺を脱出していました。その後、玄宥は智積院の再興を目指すもかないません。
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍が勝利します。慶長6年(1601年)に徳川家康は豊臣秀吉を祀った豊国大明神の付属寺院の土地建物を玄宥に与えます。豊臣秀吉に焼かれた寺院が徳川家康の手で復興するのです。慶長20年(1615年)に大阪夏の陣により豊臣氏が滅ぼされると、江戸幕府から豊臣家ゆかりの祥雲寺を与えられ、さらに規模を拡大させます。山号を現在も根来に名を残す山の五百佛山、復興後の寺号を根来寺とします。
何度か火災に遭いつつも、江戸時代前期には弘法大師以来伝わる真言密教の正当な教えを伝えている寺院として隆盛します。今でいう大学のような存在で幅広い分野の学問を学ぶことができる学問寺すなわち学山というわけで、学山智山として他宗派も含めて多くの僧侶たちが集まる大規模な寺院として発展していきます。
明治時代に入ると神仏分離令、廃仏毀釈といった苦難が襲います。明治新政府は国家神道とするためそれまでの神仏習合を改め、神道と仏教を分ける政策をとります。同時に廃仏毀釈という仏像やお寺を排斥する運動が起きます。明治33年(1900年)に智積院を中心に活動していた全国の寺院が結集し、“真言宗智山派”を公称し、智積院を総本山として定めます。これにより真言宗は智山派、豊山派(総本山長谷寺)、高野山真言宗(総本山金剛峯寺)などの諸派に分かれます。
終戦後の混乱を乗り越えて、智積院は徐々にその拡充整備がなされてきました。特に昭和41年(1966年)には、檀信徒のための宿泊施設として「智積院会館」が建てられました。昭和50年(1975年)「宗祖弘法大師御誕生千二百年」を好機として、檀信徒の安寧と恒久平和を願って、本尊大日如来が新たに造蹴され、約100年ぶりに金堂(本堂)が再建されました。また、平成4四年(1992年)の「興教大師八百五十年御遠忌」を記念して講堂が建てられ、明王殿(不動堂)を移転しました。この明王殿の本尊は根来伝来の不動明王といわれ、近畿三十六不動第二十番、京都十三仏霊場第一番となっております。こうして整った宗教的環境の中、智積院は、「修行の寺」として、信仰のよりどころとなり、老若男女を問わず、多くの人々の信仰を集め今日に至っております。
境内の広さ、伽藍の素晴らしさを今に伝えます。金堂(本堂)は元禄14年(1701年)に第10世専戒僧正が発願し、宝永2年(1705年)に建立されました。しかし、明治15年(1882年)に火災により焼失してしまいます。昭和50年(1975年)に再建され、鉄筋コンクリートの入母屋造、瓦葺の立派な建物として今もあります。御本尊は金剛界大日如来で地下には胎蔵界大日如来が祀られています。
入場が別料金で庭園が素晴らしい講堂。かつて方丈と呼ばれていて、玄宥が智積院を再興した折りに、徳川家康より与えられた祥雲寺の法堂が基でした。しかしこの建物は天和2年(1682年)に焼失し、貞享元年(1684年)に再建されます。時代が戦後になり昭和22年(1947年)にまた火災に遭います。当時、国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失してしまいます。平成に入った平成7年(1995年)に再建されたものが現在のものです。講堂の中には見事な襖絵が飾られています。そして国の名勝に指定される庭園は本当に見事です。池泉鑑賞式庭園で中国の廬山を模して造られています。池は長江をモデルにしているため、池の底に粘土を敷き詰めて、意図的に長江のように濁った水を再現しています。京都で多くの日本庭園を観ましたが本当に素晴らしいもの。一見の価値があります。
金堂の隣にあるのが明王殿(不動堂)です。「麦つき不動」と呼ばれる不動明王を祀ります。もとは江戸時代に建立された浄土宗大雲院の本堂でした。それが智積院の旧本堂が焼失した戦後に譲渡され、現在講堂がある場所に移築されました。平成に入り講堂が再建されることになると、平成4年(1992年)に今の金堂の隣にまた移されました。
庭園の隣にあるのが京都府指定有形文化財に指定されている大師堂。弘法大師空海を祀っています。寛政元年(1789年)に再建されました。
同じく京都府指定有形文化財の密厳堂(開山堂)は新義真言宗の祖、覚鑁を祀っています。寛文7年(1667年)の建立。
求聞持堂は護摩堂あるいは文殊堂とも呼ばれ、御本尊は虚空蔵菩薩。嘉永4年(1851年)の建立。
金堂の裏にはあじさい園があります。こちらを目当てに智積院を訪れました。その奥は墓地があります。
京都の市街地にあり京都駅からも歩けなくもない距離にあります。平地にありほとんど坂や階段を登ることがありません。真言宗智山派の総本山として風格のある名刹です。
甲野 功
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