開院時間

平日: 10:00 - 20:00(最終受付19:00)

: 9:00 - 18:00(最終受付17:00)

 

休み:日曜祝日

電話:070-6529-3668

mail:[email protected]

住所:東京都新宿区市谷甲良町2-6エクセル市ヶ谷B202

~地域散策 新宿中村屋~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 新宿中村屋
地域散策 新宿中村屋

 

 

現在工事の真っ最中の新宿西口。小田急百貨店が解体されて更地に。新たな工事用の陸橋が建てられております。2040年までに工事が続くと言われていて大変革の最中。新宿駅の地下道を歩いていると日々導線が変わっていきます。

この新宿で根付いた企業がいくつもあります。伊勢丹紀伊国屋東宝もそうでしょう。世界一の乗降客数を誇る新宿駅ですから始発になる小田急電鉄京王電鉄、西武鉄道(西武新宿線)もそうでしょう。新宿に根付いた企業でも異彩を放つ100年企業が新宿中村屋です。

 

新宿中村屋

 

新宿に自社ビルを持ち地下道からも入れる新宿中村屋。レストラン、美術館を併設。カレーパン、どら焼きとお手軽な飲食物の販売。色々な業態を併せ持ちます。まだ新宿駅の大工事が始まる前の10年前。大江戸線に乗り換える途中に新宿中村屋の売店があり、カレー煎餅をよく購入していました。当院に遊びにきた人へのお土産として重宝していました。あと和菓子も。最近だと子どもと映画を観た後に地下のレストランに入ってメロンソーダを飲みます。私にとっては古すぎて健康に悪そうな人工的な緑色も、令和ではエモいということで人気があるとのこと。あじさい鍼灸マッサージ治療院を開業直後の頃には教員養成科同期ビル高層階のレストランでビュッフェランチをしました。身近にあります。その歴史を調べてみると新宿の発展や世界史と関わる壮大なものでした

 

新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵は明治維新直後の明治3年(1870年)に長野県安曇野市穂高に生まれます。幼い頃に両親を亡くし年の離れた兄夫婦の養子に。明治20年(1887年)に相馬愛蔵は東京専門学校(現早稲田大学)に入学します。この頃から今の新宿に縁があったようです。卒業後は北海道に渡り養蚕を学びます。シルクロード(絹の道)の最終地点と言われる日本。それを遡るように当時の日本は絹が最大の輸出品。蚕から得られる絹は国を支える産業でした。明治30年(1897年)に相馬愛蔵は星良と結婚。結婚式を牛込の日本基督教会で挙げます。この教会は明治10年(1877年)に創設された現在の牛込払方町教会と思われます。当院からとても近いところにあります。妻の星良は宮城県の出身ですが上京し、麹町の明治女学校へ通いました。明治女学校二代目校長の巖本善治は『女学雑誌』を創刊した人物で星良に「黒光」というペンネームを授けます。相馬愛蔵、星良ともにクリスチャンでした。結婚後は長野県穂高で生活していた相馬夫妻に明治31年(1898年)に長女俊子が誕生します。明治33年(1900年)に長男安雄が誕生します。

相馬愛蔵の地元穂高で暮らしていましたが妻良が穂高の暮らしが合わないと感じ、上京を決意します。そして本郷帝大(現在の東京大学)の正門前でパン屋を夫婦で始めます。ここは居抜き物件で買い取った店舗で店名が「中村屋」といいました。繁盛店だったので屋号を引き継いで中村屋のままにしたといいます。中村というのは創業者の意志が入っていなかったのでした。また創業地は新宿ではなく本郷でした。明治37年(1904年)にクリームパンクリームワッフルを発案。新商品を生み出す気風がこの頃からありました。創業当初はパン屋で今のような豊富な商品ラインナップはありません。商売は順調でしたが課税が経営を圧迫します。このままでは立ち行かず、「売上を増やす他に道はない」と相馬夫婦は考えて支店を出す決心をします。支店の候補地を探し回った相馬愛蔵が目をつけたのが新宿だったのです。当時は今とは比べようもないほど発展していなかった新宿。何もないから多数の駅を作ることができ、淀橋浄水場を建設できたわけです。先見の明があった相馬愛蔵は新宿の将来性を分かっていました。明治40年(1907年)に中村屋は新宿に支店を開設します。ここから新宿での中村屋となります。

 

明治41年(1908年)に彫刻家である碌山が頻繁に中村屋を訪問するようになります。碌山はヨーロッパ留学から日本に戻ったあと、新宿でアトリエを設けて創作活動を行っていました。後に作品が重要文化財となるほどの芸術家。頻繁に中村屋を訪れていて碌山の最後の作品『』の精神的モチーフは相馬愛蔵の妻良だと言われています。碌山は明治43年(1910年)に中村屋の居間で血を吐き、30歳という若さで亡くなってしまいます。彼を中心に芸術家たちが中村屋を訪れるようになり、後の美術サロン設営に繋がるのです。

 

新宿の支店は売上が好調で明治42年(1909年)に新宿支店を現在地に移し、ここを本店とすることにします。製造場所が広くなり経営効率化のため、和菓子の製造販売を始めます。経営規模が大きくなりパンだけでなく和菓子も。多角経営がはじまります。

 

碌山を中心に若き芸術家が集まるようになっていた中村屋。明治44年(1911年)からは画家の中村彝が中村屋裏のアトリエに移り住みます。中村彝は相馬夫婦の長女俊子をモデルに何作も作品を描きます。中村彝は俊子に求婚しますが、俊子の母相馬良は反対し、結婚にいたりませんでした。

 

時代は大正時代へ。日本に亡命してきたインド独立運動家ラス・ビハリ・ボースを大正4年(1915年)に屋内にかくまいます。当時、イギリスの統治下にあったインドでボースは独立運動に身を投じます。その活動からイギリス政府から厳しい追及を受け、日本に亡命したのでした。大正5年(1916年)にはロシアの盲目の詩人ワシリー・エロシェンコを援助しています。彼はイギリスの盲学校で勉学中に日本のマッサージ師の話を聞き、はるばる日本を訪問しました。このエピソードはあん摩マッサージ指圧師である私には胸が熱くなるものがあります。江戸時代に杉山和一検校が盲人(視覚障害者)のための職業訓練校を作り按摩師が視覚障害者の生業として根付いてきた日本。それが海外まで知られていたのです。苦しむ外国人に手を差し伸べる中村屋はそれが商品展開によい影響を与えてきたと言えるでしょう。大正9年(1920年)から洋菓子の販売を行い、翌年からロシアパンの製造・販売も開始します。時代の変化を感じ新たな商品を広げていきます。

大きな契機が対象12年(1923年)の関東大震災です。幸いにも中村屋は災害を免れ、『地震パン』、『地震饅頭』、『奉仕食パン』の3品を夜通しで製造し、被災民に特価で提供します。この支援活動を後世も忘れずに継続するように毎年9月1日には大震災記念販売と銘打ち特価販売を行うようになるのです。また関東大震災で被災を免れた新宿の街には百貨店、金融機関が相次いで出店します。新宿が発展するきっかけにもなったのです。

 

昭和になります。お客からの要望があり昭和2年(1927年)に喫茶部、すなわちレストランを開設します。そのレストランのメニューに『純印度式カリー』がありました。上で紹介した中村屋のアトリエにかくまった亡命してきたインド独立運動家ラス・ビハリ・ボースが大いに関係します。ボースは相馬夫妻の長女俊子と結婚するのです。俊子は大正14年(1925年)に26歳という若さで亡くなりますが、彼女の死後も中村屋との交流を深めたボースは中村屋のレストランができたときに純印度式カリーを売り出すことを提案しました。パン屋から始まり和菓子も販売していた中村屋が本場インドのカレーをレストランで提供することになる。その背景には壮絶な物語がありました。インドがイギリスから独立するのは昭和22年(1947年)のことで、それに旧日本軍が関与しているのは歴史的事実。興味深いものがあります。

またこのレストランでは『月餅』、『天下一品支那饅頭』も販売します。天下一品支那饅頭は現在の中華まんです。国際色豊かなメニューを出す社風が感じられます。それは相馬夫妻が世界に目が向いていたからなのでしょう。昭和3年(1928年)に相馬夫妻は朝鮮半島から中国大陸を数カ月かけて回り、多くの商品を持ち帰りました。さらに欧州視察に出ていて、商店経営や流通等多くのことを学んでいます。昭和6年(1931年)にロシア人歌詞職人を採用しロシア菓子の販売をはじめています。昭和15年(1940年)には現在も看板商品の一つである『カリーパン』を発売します。そして日本は第二次世界大戦に突入していきます。

 

昭和20年(1945年)の大空襲により中村屋の本店、寄宿舎、工場などは焼失してしまいます。戦後の混乱により土地を不法占拠される中、昭和23年(1948年)に営業を再開。新宿の復興と共に中村屋も復活していきます。昭和28年(1953年)の伊勢丹老舗街への出店を機に、一店舗主義から多店舗展開へ方針を変えます。昭和29年(1954年)に創業者、相馬愛蔵が死去(享年83歳)、翌昭和30年(1955年)に妻の相馬良死去(享年79歳)。創業者の二人が亡くなるも中村屋は発展を継続します。

昭和33年(1958年)に本店が地上6階、地下2階のビルに。5階には結婚式場がありました。昭和43年(1968年)に神奈川工場が完成し生産量が増加。昭和45年(1970年)の日本万国博覧会(※昭和の大阪万博)に出店。全国展開を本格的にスタートさせます。高度経済成長期での新宿の変化を受けて本店を飲食主体にシフトします。昭和50年(1975年)からはフランチャイズチェーン制度が発足します。昭和58年(1983年)に『カリーまん』、昭和61年(1986年)に『ピザまん』を発売します。

 

時代は平成へ。商品展開、販売システムが多様になっていきます。通信販売開始、製造工場の建築、レトルト食品の販売、書籍の出版、新ブランド展開。平成15年(2003年)には創業100周年を迎えます。美術、芸術面でも活発で東京国立近代美術館での特集展示、碌山美術館で『新宿中村屋サロンの美術家たち』展の開催、新宿区立新宿歴史博物館で『新宿中村屋に咲いた文化芸術』展の開催、同館との協働企画展。そして平成26年(2014年)に商業ビル新宿中村屋ビルがグランドオープンします。平成28年(2016年)に『洋食レストラン新宿中村屋』が開店します。令和3年(2021年)に創業120周年を迎えました。

 

このように新宿の近代史と共にあるというのが新宿中村屋の印象。120年以上継続している企業で業態を変化させながら発展しています。現在の新宿中村屋ビルは様々なテナントが入る複合商業施設です。新宿地下道から入れる地下1階にスイーツ&デリカ『Bonna/ボンナ』があります。店内で菓子職人が仕上げる和洋菓子や揚げたての特製カリーパン、総菜などを店頭販売しています。その階下、地下2階にはレストラン&カフェ『Manna/マンナ』が。子どもとよく入る昭和レトロ感のあるレストランです。地上8階にはカジュアルダイニング『Granna/グランナ』。本格的なディナーが楽しめます。ここが教員養成科同期とランチをしたところ。地上3階には『中村屋サロン美術館』。中村屋に集った芸術家を中心に近・現代美術を紹介する美術館。飲食店が美術館を持つというのも新宿中村屋の歴史あってのこと。他にも多くのテナントが入っています。

本社ビル以外にも系列店がニュウマン新宿、伊勢丹新宿店、新宿高島屋と新宿エリアにあります。他の駅には吉祥寺、大宮、蒲田、国分寺、浦和、川越にも。

 

新宿中村屋の歴史は新宿の近代史と密接に関わります。明治後の新宿が発展するのと歩みを同じにして中村屋は発展しました。関東大震災、東京大空襲、東日本大震災、新型コロナと幾多の困難も乗り越えて。新宿に根付いた複合飲食店が新宿中村屋です。

 

甲野 功

 

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