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~経歴 高校編~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 高校生の頃
高校生時代。山岳部に所属。

 

~経歴 中学校編~ から続く

 

新宿区立牛込第一中学を卒業した私は私立國學院高校に入学します。


それまでの保育園、小学校、中学校はどれも環境によって決めた学校、施設でした。近いところにあった保育園。学区域にある公立小中学校。生まれ育った環境によるものです。高校は人生で初めて進路を自ら決めた学校でした


姉と父親が通った都立高校を蹴って区外の私立高校を選択する。家計のことを考えれば都立高校に通った方が良かったことでしょう。父も同じ高校に行って後輩になることを期待してくれていたかもしれません。しかし家族と異なった環境に出ることで自分を変えたいという想いが芽生えていた中学校3年生の頃。新宿区以外の学校に行くことを決めました。しかもきちんと國學院高校のことを知らないまま。

 

合格していた戸山高校を敬遠した理由は、また姉のいる学校に入って比較されたくないということが一番でしたが、私服というのもありました。毎日好きな服で登校していいいというのは、自信が無かった私には結構なプレッシャーでした。毎日誰もが同じ制服を着て投稿する中学校の手軽さに慣れていて、私服登校は荷が重いなと。その点、國學院高校は中学と同じ学ランでお堅いイメージ。こちらの方が性に合っていると思っていました。
そしていざ入学してみると“お堅い”どころではない世界でした

 

高校デビューという言葉があります。高校に入って急に派手になったり、突拍子もない行動をしたりとくすぶっていた、高校入学を機に自分を変える行動をとることをいいます。私は新宿区立の小中学校だったため、ずっと近所の同級生・同窓生と過ごしてきた学生生活。ここで私立高校の学区域制度のない環境に入り、中学校からの同級生も他に2名しかいない状況へ。
過去を知る人がほとんどいないため、大きく変化するには適していました。何か上手くいかなかった中学校から高校に変わり、自分自身を変えたいという願望がありました

 

入学式で國學院高校校舎に入るとそれまでとはまさに別世界という状況が待っていました。


受付時に<あなたのクラスは1年11組>という紙を渡されました。

11組??目を疑いました。小学校6年生の時は2クラス。中学校3年生は3クラス。子どもが減っていてクラスの数は減っていく一方だった小中学校時代。高校に入ったら11組。1年生全体で12クラスもあるではないですか!。

しかも1クラス50名います。それまでは1クラス30名が基本だったので50名もいるのか、と。1学年に600名もいるのです。中学校の全校生徒数が300名いかなかったので、その2倍の人数が同時に入学するという。


全校生徒数は1800名。私にとっては想像を絶する人数でした。

 

学区制が無い私立高校では広い範囲から生徒が集まっています。それまで新宿区民しかいなかったのとは大違い。埼玉、神奈川、千葉からもいます。通学時間が1時間という人もざら。都バスで来る私は異常に家が近い生徒ということになりました。そこで地域差を知ることになりました。田舎者というものも(サンシャインって新宿にあるんじゃないの?と言われた衝撃)。

 

学校の制服はとてもダサかったです。
忖度なしにダサかったですね。


今はもう変わっていますが、当時の男子は学ラン。

女子はエプロンのようなワンピースタイプのスカートをワイシャツの上に着てさらに上着。当時はスカートを短くするのが流行りで、女子はスカートを短くしたいのですが、上と繋がっているため腰周りで折ることになります。折り目が見えていると可愛くないので夏でも汗をかきながら女子はセーターを着ていたものでした。色は濃い紺色。
神宮球場の目の前、表参道のすぐそば、歩いて原宿まで行けるという立地でありながら、世間から「渋谷で一番制服が可愛くない高校」と言われていたそうです。

 

頭髪チェックも厳しく、男子は丸坊主、スポーツ刈、長髪の3択しか許されていません。なお長髪とは耳に髪がかからない、襟足がほぼ無いくらいの短さであります。世間では短髪というものです。
女子はパーマ、髪を染めるは当然禁止です。私よりもう少し前の時代はショートカットも禁止だったそうで、最低限おかっぱにしなければならなかったそう。運動部で髪が邪魔という女子もいるでしょうに。
定期的に頭髪検査があり、違反していると指導されます。私もちょっと髪が長くなって耳にかかったら、切ってこいと言われて床屋にいった記憶があります。地元の床屋でも國學院高校は頭髪検査がある学校として知られていました。
高校2年の時にある男子が「短くすればいいだろ」とスキンヘッドにしたのですが、それもダメだということでスキンヘッドも不可、と校則が追加されました。


今の時代では成り立たない世界ですね。もう四半世紀前のことなので現状は変わっているでしょうが。

 

体育のジャージも衝撃的なダサさでした。

足首の下にゴムが通してあり、踵でひっかけるやつです。若い人には想像できないでしょう。昭和の体育教師が着ているようなもので、平成初期でも十分古臭いものでした。オシャレに気を遣う同級生はみんなそのゴムを引きちぎっていました。
上着はチャックが無く前が開かないタイプでした。暑くなっても前を開いて調節ができません。


そしてその色は深緑色深緑色のジャージなど見たことがありますか?。当時でも初めて目にした色です。蛍光色や新緑のような色合いではなく”濃い緑”。エクセルのアイコンで一番が濃いところくらいの緑色。このジャージで体育を行います。
さすがに不評だったのか、私の次かその次くらいの学年から一般的な前にチャックが合って開くとができ、足首にファスナーがあるタイプのジャージに変更になりました。

 

そして体育の授業に「エッサッサ」がありました。
「エッサッサ」とは日本体育大学の伝統的応援方法で、短パン、上半身裸、素足、頭にハチマキをしめて、全力で『エ~~サッサ!』と叫び拳を突き上げるものです。日体大関係者ならば誰でも知っています。検索すれば動画がすぐに出てくるでしょう。参考までにこのようなものという動画を。

体育教師が日体大卒だった関係で、日体大と関係のない國學院高校生が「エッサッサ」を真剣に学びました。体育祭では全校生徒の前で披露しました。大太鼓とともに校庭に整列して行います。女性生徒には秘密で練習していたため、おもむろに服を脱ぎだして短パンいっちょになる姿は悲鳴が上がりました。
「エッサッサ」はイベントの余興ではなく体育実技でしたから、実技試験もありました。腰を落とす、肘の角度は90°、声を出す。何より本気でやる。そのため正式なエッサッサを今でも覚えています。日体大卒ではないのにここまでできる人は数少ないでしょう。

 

國學院高校は國學院大学の付属高校です。國學院大学は神道系の大学で神主資格を取ることができる学科があります。入学するまで、いや卒業してもしばらくそのことを理解していなくて(当時は神道そのものが分かっていなかった)、入学直後に歩いて明治神宮に参拝にいった理由が分かりませんでした。600名の高校生が革靴で明治神宮の玉石の上を歩く。なんでしょう?という感じでした。

 

 

このような人数が多い、服装・髪型が厳しい、(当時の自分には)理解しがたい習慣のある当時の國學院高校。そこで大きな転機を迎えました。


鬱屈とした中学校時代から脱却したいと願った私には服装や髪形を制限されたことはむしろ幸運でした。見た目に気を使わないので気が楽です。制服と髪形を制限することで誰もが均一化してみえてくるのです。また1クラス50名、1学年600名もいると様々なタイプの生徒がいるので、悪い方に目立つことが無さそうだと思いました。

 

入学早々、担任から個別に用紙をもらいました。そこには<25/50>という文字が。この意味は1年11組50名中、入学試験の順位が25位だということを示します。國學院高校はそれなりの進学校でした。卒業するまで幾度となく成績順位が明確にされる学校でした。私立ですから難関大学への合格、部活動の活躍は経営に直結する重要事項です。

それは公立中学校との大きな違いでした。

 

新天地で自分を変えようと意気込んでいた私は部活動をどうしようか考えます。

中学校には無かった水泳部に今度こそ入ろうと考えていたのですが、國學院高校にはプールがありませんでした。プールがないのに水泳部に入るのはどうなのだろう、と躊躇してしまいます。
するとこれまた中学校にはなかった山岳部があるではないですか。小学校まで数えきれないくらい登山をしてきたので、山岳部にとても親しみを感じました。そして先輩方が優しそうだったので山岳部に入部することにしたのです。

 

他のスポーツではだいたいが経験者ばかりが入るでしょうが、山岳部で経験者はほぼいません。ここで子どもの頃の経験が活きることになりました。山岳部はとても小さい弱小部で運動部ではなく文化部でしょ?とか、部員いるの?と言われるありさま。1800名という生徒数がマイナー部を存続させることになっていたと思います。2年生が5名ほどいて、1年生は私を含めて5名くらい入部しました。

 

山岳部に入ったことは良かったのですが、クラスで自分をアピールするには効果がありません。なにせ競技会がないため外部への客観的功績を示せません。どれだけ厳しい山を登ったとしても部員にしか分からないことです。インターハイはあるのですが、テントの建て方の速さを競うというようなもので、参加しない方針でした。

 

何せ私は球技全般が苦手です。サッカー、バスケ、野球、バレーボール、テニスといった花形スポーツは全て苦手。走るのも速くありません。走り幅跳びは得意でしたがもちろん陸上部にはかないません。唯一得意な水泳の平泳ぎも、プールがないので体育にも体育祭にもありません。演技もダンスも演奏もできないので文化祭で活躍することもありません。


そうなると残るは勉強でした

 

國學院高校は進学校。常に成績順位はついてまわりました。

この環境が私には合っていて、勉強ができるとそれだけで認められるという感じでした。小学校から中学校の前半までをのほほんとしてきたので、勉強に対する余力がありました。高校受験で燃え尽きてしまった生徒もいる中、勉強すればするほど成績が上がっていきました。1年生の後半にはクラスで成績上位になり、学級委員長を担任から指名されます。なお前半の学級委員長は入試の成績上位者でした。そういう結構露骨なことを当時はしていたのですね。

 

何かの長につくという経験はこのときが人生で初めてのこと。振り返ると大きな出来事でした。

 

そして2年生になるときに山岳部でも話し合いの結果、部長になることに。3年生は受験に専念するために2年生の終わりで部活を引退する習わしでした。集団のリーダーになることなど中学までなかったことですだんだんと自信が持てるようになり、自分のことを好きになれる感じがしました。

 

それでも、1年生の頃は勉強ができる暗い人という感じだったと思います。山岳部ってそもそも何?くらいの感じです。一緒につるむ同級生も地味な感じ。もっと華やかなグループがいいな、と内心思っていました。今だとくだらないことですが、当時は大きな課題で勉強ができるだけではダメだとくすぶっていました。


その状況が変わるのが2年生になるときです。

 

2年生から進路別にクラス編成が変わるのでした。まず文系・理系を選択します。理系ならば日本史か世界史を選択します。その進路志望により2年生のクラスが決まるというシステムでした。生徒の大半がそのまま上の國學院大学に内部推薦で進学します。よって大多数が文系に行きます。國學院高校に理系学部はありませんので。
私は得意だった数学、物理をいかすために理系を選択し、社会は日本史にしました。


またこのときに将来取りたい資格を書くアンケートがあり、ここで私は「マッサージ師」、「鍼灸師」と書きます。開業当初にもこのことをブログにしましたが、高校1年生時点でスポーツトレーナーに興味があり、そのために必要そうなのがこの資格だと漠然と考えていました。実は高校1年生時点で今の職業を見据えていたのでした。

 

1年生は12クラスだったのが、2年生になると14クラスに増えます。そこには理系・日本史選択クラスが2つ、理系・世界史選択クラスが2つ、残りは文系クラスという感じでした。文系にも生物、地学選択などあったと思いますが詳しいことは知りません。
2年生から、同級生の大多数が文系の中、理系を選ぶ、異端児・マイノリティーばかりが集まったクラスになるのでした。主流派ではない分、結束が固いというか、変人が多いというか、こだわりが強い人間ばかりクラスにいた気がします。当たり前ながら大学は外部に受験するわけで、敢えて理系科目を学ぼうとする者しかいないのです。
マニアックな理科や数学の話ができる。むしろ喜ばれる。理系って・・・という冷ややかな目が無い。文系科目が極端に減っていく。生粋の理系人間には好ましい環境になりました。

 

ここでまた意外なことが起きます。2年生のクラスで11組から一緒になったのは1名しかいないということ。1年生の担任は化学の先生で、2年生も繰り上がりで担任を持ちました。11組で理系・日本史選択をした生徒はみんなそのクラスに入ったのです。私ともう一人だけ仲間外れのようにクラスが違う。これは山岳部の顧問が数学の先生で2年生のクラスを担任になるときに私を持ってきたことのようです。私立高校は恐ろしいなとちょっと思いました。その関係で2年生も学級委員長をしました。
なおこのとき山岳部顧問で2年担任だった津田先生は國學院高校校長になります。

 

こうなると1年生の頃を知っているクラスメイトがほぼいない状況で2年生になります。他は1年生の頃から知っているグループができていて、元11組ペアとして二人だけ疎外感に襲われました。1学年600名もいるのでクラスメイト以外は部活が同じでなければ知り合いになることが困難です。山岳部という弱小部に所属していたため部活の人脈もありません。


そこでこの状況を逆手にとって高校デビューならぬ、高校2年生デビューを企てます。2年生になった当初はやはり地味なグループにいたのですが、一念発起してクラスの中心になっていそうなグループと仲良くなるように努力していきました。今だったら全く気にしないのですが、高校2年生の私はイケているグループにいたいと願っていました(今思うと何がイケているのかもよく分からないですが)。

 

勉強に関してもそこは進学校で、元何組と何組の1位があいつとあいつだ、といった噂がすぐに出ます。私も元11組のトップということで目を付けられます(勉強の面で)。ことあるごとに成績順位が出るので、同級生たちと成績争いをしていました。


理系と一口にいっても数学が得意なやつ、化学が得意なやつ、物理が得意なやつ、と色々です。数学にしても単元によって違います。私の場合、物理(特に力学)と数学(特に微分積分)が得意でした。
中には本当に天才的な人間もいて、数学の定期試験は100点以外取らず、答案用紙が返却されても一瞥して丸めてゴミ箱に捨てる猛者がもいました。女子だと化学が猛烈にできるひともいました。


互いに切磋琢磨し、得意分野で勉強を教えあいながら、文系だらけの学校で頑張っていました。部活の性質上、学校の名前を背負って戦うことがなかった私には勉強が競う場であり、仲間意識を感じる機会だったのです。

 

理系クラスで将来のことを話し合ううちに、私は宇宙物理学が学びたいと考えるようになり、鍼灸師やマッサージ師のことは頭の中から消えていました

 

 

3年生のクラスになると国立コースが分かれて理系3クラスになりました。場合によっては文転といって文系に替えるひともいたようです。更に理系色の強い生徒が集まる感じでした。3年生の担任は1年生の時と同じ担任。2年時に別のクラスになった1年11組の生徒とも再合流しました。そしてまたしても学級委員長。この頃になると学級委員長をすることが当たり前のように感じていて、人間が変わるものだと思いました。

 

3年生の時はとにかく受験、受験という感じでした。
修学旅行も2年生で終えており、どの大学を受験するのか、どの学部にするのか、といった事ばかり話題になっていました。指定校推薦枠を誰が取るかみたいな駆け引きがありましたが、概ねみんな仲良かったと思います。というのも國學院大学に進む多くの文系生徒には受験は関係がないのでのんびりとしたものです。理系クラスは目が血走りながら受験勉強をするので結束が強かったと思います。

 

現役で志望校に合格する者、推薦で早めに進路が決まる者、やむなく第一志望ではない大学進学を決める者、浪人する者、色々です。ここで、これまで同じ年度に生まれた者が同じように進んできたのが、その道が分かれます。私は第3志望の東京理科大に合格し、現役で大学進学することを選択します。浪人してもこれ以上成績は伸びないだろうという予測と、さっさと次のステージに進みたいという気持ちで決めました。


なお、センター試験で受験表を忘れ、第一志望の早稲田大学受験では受験する学科を間違えて願書を出し、センター試験2日目の帰りに道に迷い、安パイだと思っていた理科大センター試験入試が昨年の倍率2倍から19倍に跳ね上がるという想定外、といった幾多の受験トラブルがありました。

 

この高校生時代に、
グループの長になる(今では肩書院長です)、

理系に進む(東京理科大に進学しなければ今の状況はないでしょう)、

鍼灸師・マッサージ師になりたいと思う(実は結構早い時期から考えた)、
といった現在に繋がる遠因がいくつも起きました。
東京理科大に進学しなければ今の私はないでしょう。高校1年生に希望した資格を10数年後に取得しています。


そして高校3年生になる直前に起きた地下鉄サリン事件。日本が初めて体験する本格的バイオテロ。舞台は東京であり、生活圏内。その前に起きた阪神淡路大震災と違い、すぐそばで起きた未曾有の大事件に平和とはどのようなことか初めて考えさせられました。

 

保育園から中学までの人格形成準備期があり、高校時代に今の土台が作られて、大学以降で具現化していったと思います
高校3年間と大学4年間。この7年間は本当に人生の方向性を決めた大切な時期でした。

 

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甲野 功

 

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