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~舞台俳優の凄さ~

文学座公演 田園1968 パンフレット
文学座公演 田園1968 パンフレットより

 

 

昨日は患者さんが出演する舞台

『文学座公演 田園1968』

を観劇してきました。

 

きちんとした劇団の舞台に行ったのは2016年以来。その時も患者さんが出演している作品でした。今回の劇場は紀伊國屋サザンシアター。前回観劇した高円寺の劇場よりも規模が小さかったです。しかし平日だというのに満席で驚きました。演劇業界のことはよく知らないのですが文学座は名門劇団だと聞きました。コロナ禍以降でこんなに人が密集したイベントは新江ノ島水族館のイルカショーだけ。イルカショーは屋外で解放感がありましたが、今回のような屋内にぎっしりと人が座っている光景はアフターコロナを感じました。

 

さて劇が始まると照明(ライティング)の効果もあるのでしょうが、何かスクリーンを観ているような感覚がありました。確かに役者さんが動いて声を発しているのですが、何か現実ではないような、精巧なスクリーンを観ているような。舞台が大きくないので視界の中に全体が収まるからかもしれません。

 

内容は1968年のどこかの地方。農園を売るか売らないかに直面している家族とその周りの人々の話。場面は家の軒先。セットを変えて場面転換することなく、全編ほぼその場所でした。大道具や設備で驚かせるような演出はありません。プロジェクションマッピングとか舞台が動くようなことはなく。つまり登場人物のやり取りが主体の舞台です

 

私が子どもの頃は、親の趣味だったのでしょうか、何度か劇団四季の舞台を帝国劇場に観に行きました。劇団四季といえば日本を代表する劇団の一つ。劇場の規模も大きく登場人物もたくさんいました。また小学校の課外授業で何度か新宿文化センターで演劇を観た記憶があります。新宿文化センターの大ホールは結構な大きさで、それなりの大きな劇団が演じていたのでしょう。他には地域にある矢来能楽堂で能を観劇する授業が小学校のときにありました。それらの記憶をたどると舞台環境は能に近いと感じました。

何が言いたいかというと役者の演技に対する比重が非常に大きい舞台であるという感想。9名のキャストだけしか登場せず、9名で2時間半の舞台を成立させる。いわゆるちょい役という人がいませんでした。各々にキャラクターと背景、そして関係性がしっかりとあります。

最初のうちからセリフがとても多いと感じました。単純にあれだけ声を張って動いて話し続けるのは相当な体力を使うことでしょう。途中休憩を挟むのですが、これまでの数少ない観劇経験で休憩がある舞台はほとんど無かったので意外でしたが、観ていくうちに役者の体力を考えると納得できるものでした。もちろん裏方の事情もあるとは思いますが。

 

物語の時代は1968年。私が生まれる前の時代ですが、激動の時代と称されます。ここ20年くらい毎年大事件が起きてずっと“激動の時代”のように感じますが、この時代の激動は今よりも人間が生々しい印象を受けます。第二次世界大戦が終戦して20年。最初の東京オリンピックが終了してから4年。国内では学生運動が盛んで東京大学安田講堂が封鎖されました。昭和の未解決事件で有名な三億円強奪事件が起きた年。世界ではベトナム戦争プラハの春がありました。私は邦画をたくさん観ていた時期があり、この時代を描いた作品をいくつも観ました。在日朝鮮人の葛藤を描いた『パッチギ!』、三億円強奪事件を描いた『初恋』、少し後の時代になりますが学生運動の極致『突入せよ! あさま山荘事件』。大人は戦争の経験を覚えていて、若者は海外の戦争、混乱を知った上で国内では学生運動が身近にあった。デモ、ストライキ、闘争、ゲバ棒、内ゲバ、バリケードといった今では存在しないようなものが一般市民にあった時代。

 

のどかな田園風景が都市化の波に晒されていく。学生運動に敗れて東京から帰ってきた学生。近代化に抗う人と積極的に近代化を進めようとする人。閉館する施設。これまで観てきた邦画の時代背景を感じるストーリー。そのためキャラクターが現在の人間とは異なった価値観を持っている(ように見える)。時代劇ではないけれど現代劇とも言えない。ネットが普及しコンプライアンスが厳しくなった現在では失ってしまったものを感じました。そして演劇である以上、言動は大袈裟になります。映画やテレビのようにズーム、編集、効果音、何だったらテロップで説明する、といった補助がなく、一発本番で観客に理解してもらわないといけません。観客に心の声など聞こえるわけありません。その結果、いるようで見たことがない異質の人物たちが舞台にいるのでした。

 

最後、劇が終わったとき、私は少し泣いてしまいました。はっきり言って特に感動的なストーリーでも悲しいストーリーでもありません。そうそう日常に起きるような内容ではありませんが、こういう事は当時あったのだろうなというストーリー。

なぜ涙が出たかというと、劇が終了したときに役者さんが素に戻った様子が見えたからです

それまでずっと役を、別の架空の誰かを、演じてきた役者さん達が。表現が悪いかもしれませんが、何かに憑りつかれた人間が、それが抜けて自我が戻ったような素の個人に戻った瞬間。そこに役者としての凄さと、(人を診る職業として)怖いなと思ったのです。

 

私は鍼灸師という職業。東洋医学には四診という相手の状況を診る技法があります。それ以外にも多くの患者さんと相対した経験から、その人の雰囲気を察知する能力に長けています。また大学生から始めた競技ダンスの経験から人前で表現することは理解していますし、外から見て体をどのように使っているかを推し量る経験も積んでいます。そのような目で舞台上の役者さん達を観たときに、それまで姿勢、表情など演じるために幾つもまとっていたものが、す~っと消えた感じがみてとれました。敢えて姿勢を悪くしていり体が不自由に見えるよう振る舞っていたりしていたことが無くなり、身体から緊張が解けてナチュラルになった。まさに憑き物が取れたような素の表情になり、観客にお辞儀をしている。そのギャップに驚き、そしてどれだけ大変なことをしていたのだろうと心配するような想いが出てきました

 

社交ダンスをしている人間は、曲が終わってもフロアーにいる間は絶対にダンサーの仮面を外しません。衣装、メイクという外面を着飾る以前に、ダンサーとしての見栄のようなものを消すことはありません。またこれまで観てきた劇でも舞台に立っている間は役をその身にまとっていることばかりでした。今回観た劇の役者さん達は仮面を脱いで最後に挨拶していたように私は見えました。最後に役から解き放たれた様子が垣間見えました。

 

今回、舞台を観に行こうと決めたのは舞台稽古に入った患者さんが来院したときのことが理由です。それまでと顔つきも性格も肉体も変わったかのような印象を受けたのです。まさに別人かのように。書いた通り、臨床では患者さんの見た目や話し方、体の固さなど色々な点から相手の情報を読み取ります。その情報が大きく変わった印象があり、驚いたのです。役作りとは言いますが、本当に別人になろうとしているのではないかと思ったのです。心身ともに相当な負担がかかっているのだろうと予想しました。実際に舞台を観たときは本当に知らない人がいるような感覚。率直な感想として舞台俳優とは恐ろしいことをしている。それ故に終幕時の挨拶に涙が出たのだと思います。凄い、そして怖い世界だと思いました。

 

芸術はどこか狂気をはらんだもの。6年前よりも経験値が上がった状態で観た舞台は色々な想いが浮かんできました。生の舞台。二度と同じようにはできないもの。一期一会。身体表現をする俳優の凄さを知った機会でした。

 

甲野 功

 

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