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今年。京都旅行に二度出かけています。一度は次女を連れて東寺五重塔の内部を観に。特別公開をしていることを知り行ってみたいという。そして二度目は紫陽花の季節に。その二度目の京都旅行で最後に訪れた神社仏閣が東本願寺でした。15年くらい前に妻と奈良・京都を旅行した際に来ました。その前には高校3年生の頃、卒業旅行で同級生と来たことがあるかもしれません。それらの頃は今ほど神社仏閣に興味がなくて果たして本当に東本願寺だったのかという疑念もあります。京都は町中お寺だらけですから。しかも当時は神社と寺院の違いも分かっていませんでした。改めて東本願寺に行ったのでした。
東本願寺に今年参拝することはもう一つ意義がありました。今年1月に父親が急死。今もその対応に追われていう状況であります。亡くなって直近で考えなければならなかったのが葬式でした。高齢な母では対応できないので前面に立ち葬儀の準備に奔走。葬儀当日は文字通り悲しむ暇もあまりない心境でした。葬儀に先立ち、甲野家は浄土真宗東本願寺派だった事を知ります。子どものときに我が家は浄土真宗だと聞かされていたのですが、浄土真宗に派閥があることを理解しておらず。過去に調べたのですが頭に残っていませんでした。納骨の時に別の大谷派のお坊さんがお経を読むが構いませんかと石材店に確認されて再認識しました。その上で大谷派の本山である京都東本願寺に出向くことは意味を感じます。5月に大谷派のお経を聞き納骨をし、6月に大谷派本山に足を運ぶ。
今回は京都の東本願寺を紹介します。京都の、と枕詞がつくのは東京にも東本願寺があるからです。浅草にある東本願寺は東本願寺派の本山となります。
宗教は仏教の浄土真宗。その中の真宗大谷派の本山であるのが東本願寺。東本願寺というのは俗称で正式には真宗本廟といいます。御本尊が阿弥陀如来。「本願寺」としての創建は元亨元年(1321年)で開山(お寺を開いた人)が覚如上人です。覚如上人は浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の孫にあたります。親鸞聖人の亡き後、聖人の墳墓の地に御真影(姿をそのまま写して作られた木像)を安置する廟堂が建てられ、地名から大谷本廟と言いました(大谷は現在の京都市東山山麓)。これが本願寺の祖であります。覚如上人が大谷本廟を本願寺と公称したのです。そのため大谷本願寺と言われることがあります。その後本願寺は衰退するのですが第8第蓮如上人のときに中興します。軋轢をよび寛正6年(1465年)に比叡山衆徒により本願寺は破却されてしまいます(大谷破却)。そこで山科の地に移し山科本願寺となります。さらに天文元年(1532年)に今度は法華衆徒らによって山科本願寺が焼かれてしまいます。更に石山御坊に移り石山本願寺となります。この石山本願寺も元亀元年(1570年)に織田信長との石山合戦に見舞われます。10年もの戦を経て石山本願寺は明け渡すことになり全焼するのです。天正19年(1591年)に豊臣秀吉は京都堀川六条の寺地を寄進します。これが後の西本願寺となります。そして慶長7年(1602年)に徳川家康が教如上人に京都烏丸六条の寺地を寄進し、こちらが現在の東本願寺へとなるのです。その意味でいうと東本願寺の創建は慶長7年(1602年)となるでしょう。
ちなみに関東の東本願寺はどのような経緯で誕生したのでしょうか。天正19年(1591年)(あるいは1603年)に江戸の神田に光瑞寺が開創され、江戸における本願寺の録所(教務所・出張所)となります。慶長19年(1614年)には光瑞寺は掛所(別院)となります。その後明暦3年(1657年)の明暦の大火により光瑞寺は焼失。浅草に移転し浅草本願寺、築地に移転したのが築地本願寺となるのです。昭和に入ると真宗大谷派から東京本願寺が独立し昭和63年(1988年)に浄土真宗東本願寺派を結成します。東京本願寺は平成13年(2001年)に浄土真宗東本願寺派本山東本願寺の名称になるのです。
歴史をみると親鸞聖人の廟堂があった大谷の土地を冠した真宗大谷派が歴史的にも地理的にも祖に近い感じがします。江戸時代初期に東本願寺となりましたが相次ぐ火災に見舞われます。天明8年(1788年)の京都大火、文政6年(1823年)の境内からの出火、安政5年(1858年)の京都大火。そして元治元年(1864年)に起きた禁門の変(蛤御門の戦い)による戦火。禁門の変は幕末の歴史で非常に重要な戦い。ここで東本願寺が被災していることは個人的に興味深いです。ここまで焼失しても繰り返し復興することに歴史と伝統、そして信仰心を集めてきたのだと思い知らされます。現在の建物は明治28年(1895年)に完成したもの。平成23年(2011年)に親鸞聖人七百五十回御遠忌の特別記念事業として大規模な修復がされて今日に至ります。私が妻と訪れたときは修復前の姿だったはずです。
ここで宗祖親鸞聖人とはどのような人物だったのか。簡単に触れます。平安時代末期の承安3年(1173年)、京都で生まれます。9歳で出家し、20年間比叡山延暦寺で修業します。29歳の時に比叡山の仏教と決別をして法然上人と出会います。法然上人は浄土宗の祖です。法然上人のもとで約6年間過ごします。多くの人々から信仰を集めた法然上人の教えは他宗から反発を受け、朝廷から弾圧されることに。法然上人と親鸞聖人は流罪となってしまいます。35歳の親鸞聖人は越後(現在の新潟県上越)に追放されます。5年後に流罪が許された後は法然上人の死を知ったことで京都には戻らず関東へ向かい、そこで約20年間滞在します。60歳ごろに京都に戻ってきます。そして90歳で亡くなられます。なお浄土真宗は厳密には宗派ではなく、“師である法然によって明(顕)らかにされた浄土往生を説く真実の教え”(=顕浄土真実)であります。それは“法然から伝えられた教え”であり親鸞聖人自身には独立や立教開宗の意思は無かったそうです。浄土真宗は親鸞聖人没後に、その門弟たちが教団として発展させたものだそうです。
東本願寺には非常に大きな建物が2つ並んでいます。これは元々東本願寺は親鸞聖人の御真影を安置する廟堂でした。つまりお墓。その後寺院代する流れとなり本尊(阿弥陀如来)を祭ることになり、それを安置する本堂ができます。廟堂と本堂が並ぶことになり両堂形式となったのです。本堂が阿弥陀堂で廟堂が御影堂です。その両堂を渡廊下(国重要文化財)が繋いでいます。「造り合い廊下」とも呼ばれ、現在はジオラマが展示しています。大規模修復がなされ令和元年(2019年)に御影堂、阿弥陀堂、御影堂門、阿弥陀堂門、渡廊下などが国の重要文化財に指定されました。
境内のほぼ中央にあるのが御影堂(国重要文化財)です。親鸞聖人の坐像である御真影を安置する建物となります。間口76m・奥行き58m・高さ38mという世界最大級の木造建築で、これは東大寺大仏殿の建築面積を上回ります。立派な寺社がたくさんある京都においてもその規模は目を見張ります。中は内陣・外陣・参拝席に分かれています。内陣本間の中央に須弥壇上を設け、その上に御真影が安置されています。内陣・外陣に敷かれた畳を合わせると927畳にもなり広大な畳の広場という感じです。その圧倒的な広さに驚かされます。
両堂のもう一つが阿弥陀堂(重要文化財重要文化財)。本堂にあたり、御本尊阿弥陀如来立像を安置しています。間口52m・奥行き47m・高さ29mと御影堂よりはかなり小さいですが素晴らしい造りです。堂内は御影堂と同じように内陣・外陣・参拝席に分かれていて、内陣本間中央に本尊阿弥陀如来(木像・立像)が安置されます。今年拝観したときは屏風が閉じられていていました。
御影堂門(国重要文化財)も圧倒的です。現在のものは明治44年(1911年)に再建されました。高さは約28mを誇り、南禅寺三門、知恩院三門と並ぶ京都三大門の1つとされます(※京都三大門は諸説があり、知恩院三門・南禅寺三門・仁和寺二王門がそうだとするものと、ここに東本願寺御影堂門、東福寺三門を入れ替えるものもあります。なおこれら5つの門で東本願寺御影堂門が一番の高さです)。上層に釈迦如来坐像を中央に右側に弥勒菩薩立像、左側に阿難尊者立像の三尊が安置されています。楼上には東本願寺の正式名称である「真宗本廟」の額が掲げられています。その規模と美しさは圧巻です。
阿弥陀堂門(国重要文化財)は阿弥陀堂の前にあります。江戸時代には唐門と呼ばれていました。御影堂門と同様、明治44年(1911年)に再建されたもの。
鐘楼(重要文化財)が境内にあります。安政5年(1858年)の大火で焼失した後、明治27年(1894年)に再建されました。現在の釣り鐘は平成22年(2010年)におよそ400年ぶりに新調されたもの。
新幹線の停まるJR京都駅からすぐのところに巨大で立派な木造建築がそびえ立ちます。駅から本当に近いので参拝しやすいです。
甲野 功
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