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~地域散策 神楽坂という坂~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 神楽坂という坂
神楽坂の由来を書いた案内

 

 

先日NHKの番組『ブラタモリ』で神楽坂が特集されました。地元が特集されるという事で興味深く観賞しました。タモリさんは神楽坂に来ることがないそうで私には非常に見慣れた景色を珍しそうに歩いていました。メインの神楽坂通りを進みながら神楽坂の歴史を探索していきます。神楽坂という地名は非常に有名。その歴史は江戸時代初期に遡ります。時の江戸幕府第3代将軍徳川家光が家臣酒井忠勝の下屋敷に向かうために最短距離を結ぶために地形を無視して通した道だといいます。整備されたのは江戸城外堀や牛込見附の牛込門と同時期の寛永14年(1637年)と伝わります。真っすぐ道を通したため起伏があり、上がったり下がったりのアップダウンが生まれ、それゆえに坂となるわけです。行程は現在の飯田橋駅から外苑東通りを越えたあたりから、東西線神楽坂駅矢来口あたりまで。着いた先にあったのが酒井忠勝の下屋敷。酒井忠勝とは江戸時代初期に徳川家に仕えた家臣で重臣中の重臣という人物。その下屋敷町があったのが現在、矢来公園がある辺り一帯です。矢来という地名も酒井忠勝に関連しますがそのことはまた別の機会に触れましょう。江戸時代の初めに整備された坂が神楽坂なのです。

 

「神楽坂」という名称はどのようについたのでしょうか。江戸時代後期の天保7年(1836年)に刊行された『江戸名所図会』の巻之四。『江戸名所図会』は今でいう観光ガイドブックで全7巻20冊あります。その巻之四には、今の神楽坂の右側に高田穴八幡の旅所があり祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したからとあります。高田穴八幡とは現在の高田馬場駅近くにある穴八幡のことです。また『江戸名所図会』では若宮八幡の社の神楽の音がこの坂まで聞こえたからともいわれています。若宮八幡とは現在の神楽坂若宮八幡神社で私の母校、東京理科大学神楽坂校舎の近くにあります。若宮町という住所の由来となった神社です。

他にも原本が残っていませんが安永4年(1775年)から寛政8年(1796年)の間に成立したとみられる『改撰江戸志』には、津久戸明神が元和の頃(1615年~1624年)にこの地に移転した時、神輿が重くてこの坂を上ることができなかったが神楽を奏すると容易に上ることが出来たため、この時より「神楽坂」の名が付いたと記されているそうです。『改撰江戸志』の記述が正しいとすれば徳川家光が江戸幕府3代将軍になるかならないかくらいの頃には神楽坂という名称があったことになります。

 

世界から“miracle peace(ミラクルピース)”と称されることもある太平の世、江戸時代。200年以上大きな戦がない時代。神楽坂は繁華街として栄えていきます。地形から表通りから裏道に入ると崖が迫り人目につきにくいのです。そのため遊郭ではない岡場所が神楽坂裏道に集まります。遊郭は幕府公認で吉原でしたが、幕府非公認なのが岡場所。幕府の目から隠れる必要があり神楽坂は適した立地でした。江戸時代後期の文人・狂歌師である大田南畝(別号、蜀山人。寛延2年(1749年)~文政6年(1823年)は神楽坂に住んでいました。

 

明治維新が成り、徳川幕府から明治新政府に移行した明治以降、岡場所から座屋敷に変わります。密会の場所となる座屋敷は命令で人目に付く場所や建物に置くことが禁じられたためです。その結果、神楽坂は花街となりました。明治時代には小説家である尾崎紅葉、その弟子である泉鏡花が神楽坂に住んでいました。また尾崎紅葉の弟子にあたる田山花袋も神楽坂付近で居を転々としました。田山花袋は当院がある場所にも住んでいました。詩人北原白秋も早稲田大学に通うため神楽坂に住んでいました。文豪夏目漱石も新宿区で生まれており神楽坂と縁が深い人物。作品『坊ちゃん』では主人公が東京物理学校(現在の東京理科大学)に通う設定になっています。明治20年(1887年)頃に“牛馬車止”の標識が置かれ、歩行者天国のはしりとなります。日曜日の歩行者天国は令和の現在も健在。「山手銀座」と称されます。

 

大正時代になると神楽坂は花街として隆盛を誇ります。今でも京都の祇園と雰囲気が似ていると言われますが花街の名残がそうさせているのでしょう。関東大震災での被害が少なかった神楽坂に日本橋・銀座方面より商人が流入し夜店が盛んになります。

 

昭和に入り戦後の昭和27年(1952年)に神楽坂の芸者である神楽坂はん子が「芸者・ワルツ」という歌謡曲を大ヒットさせます。神楽坂=芸者というイメージが大いにあった時代です。昭和の大政治家、故田中角栄と神楽坂の関係は有名です。神楽坂は非常に稀な逆転式一方通行で午前と午後で一方通行の方向が逆転します。このようになったのは交通量増加による混雑緩和のためなのですが、まことしやかに田中角栄が政治力で都合よく交通ルールを変えたと噂されました。神楽坂と田中角栄の逸話はたくさんあるのでまた別の機会があれば紹介します。「東京三大花街」(神楽坂・新橋・浅草)や「東京六花街」(向島・芳町・新橋・赤坂・神楽坂・浅草)と称された神楽坂も昭和後期になると芸者文化は衰退していきます。今も行われる阿波おどり大会が有名な神楽坂まつりが始めるのが昭和47年(1972年)。

 

平成に入るとかつて栄えた街という雰囲気が漂うに表通りもゴミが目立つような状態でした。私が東京理科大学を通った平成8年(1996年)から平成12年(2000年)は現在のような賑わいはありませんでした。転機となるのは平成19年(2007年)に放送されたテレビドラマ『拝啓、父上様』でした。折に触れていますがこのドラマは主演が嵐の二宮和也さんで脚本が倉本聰氏。意図的に美しく神楽坂を映し、田中角栄と神楽坂料亭をモチーフにしたストーリー。若い女性に絶大な人気を誇った嵐の二宮和也氏が主演をしたことで、それまで花街のイメージがあり、縁の遠かった若い女性層(嵐ファン)が大勢神楽坂に押し寄せました。地元民として断言しますが、今のお洒落な観光エリアとしての神楽坂はここから始まったと言えます。お店が若い人向けに変わり、立ち寄らなかった裏道に人が歩き出すようになったのです。猫の仮装イベントとして今や大イベントとなった「化け猫フェスティバル」が始まったのは平成22年(2010年)でした。7月の神楽坂まつりと並ぶ10月の風物詩となります。

 

令和になり新型コロナのパンデミックで苦しい状況に置かれても、令和4年(2022年)に「世界で最もクールなストリート」ランキングで33選中25位に選出されます。これは「Time Out」という海外サイトの調査結果をもとに作成されたもので、世界中の約2万人の都市生活者と各都市の「Time Out」編集者やライターによって選ばれます。全世界の通り(ストリート)で25位ですから。世界的に注目されたといえます。

 

江戸時代に整備された坂。それが神楽坂。起伏のある坂道がその周辺を含めて発展し今に至ります。

 

甲野 功

 

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