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~経歴 小学校編~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 小学校6年生の頃
小学校6年生の頃

 

幼少期からを振り返っています。保育園編に続いて小学校編です。

~経歴 幼少期保育園編~

 

小学校6年間というのは、とても長い大きな時間です。
当時の東京都新宿区に住む世帯では珍しかった共働き家庭で育った私は、地元の小学校に入学しました。

今でもある新宿区立市谷小学校です。校庭は狭く、校舎もいびつな建て増ししたような形をしています。110年以上の歴史を誇る学校です


ここで6歳(7歳になる年の4月)から12歳(13歳になる年の3月)まで通いました。小学校6年生が12歳として、人生の半分を過ごし所属した場所になります。
身体も心も知能も大きく成長した6年間でした

 

入学当初はクラスの同級生や小学校というシステムに慣れませんでした
保育園から上がってくる児童は少なく、私が卒園した薬王寺保育園からは3名しか市谷小学校に進学しませんでした。同学年の大多数は小学校と併設する市谷幼稚園からあがってきた子ばかり。通い慣れた校舎で互いに知り合いです。入学した時点で疎外感を覚えたものでした。


この状況を加味してくれたのかどうかは定かではありませんが、同じ薬王寺保育園から来た私を含めた3名は6年間一緒のクラスでした。

 

保育園では同学年(同じクラス)は15名。市谷小学校になると30名のクラスが複数。ここは記憶が定かではないのですが3クラスか4クラスありました。人数が大幅に増えたのは確かです。そして保育園であったお昼寝がありません。生活リズムが変わるのに慣れませんでした。

 

また放課後は学童クラブに行くことになります。学童クラブは保育園の延長のようなもので、児童館にある放課後まで子どもをみてくれる施設です。ランドセルを背負ったまま児童館に行き、学童クラブ用の部屋に荷物を置きます。おやつが出ます。他の子どもは一度家に帰って、放課後の遊び場として児童館を利用します。児童館利用の子どもは出入り自由で、学童クラブ利用者は午後6時くらいまでそこにいます。私は2つ年上の姉と一緒に学童クラブに入り、帰りは姉と夕方帰宅するようになりました。

今でも私が利用した学童クラブはあります。利用する小学生は相当な人数で、私の小学校時代とは数が違います。


私が学童クラブから帰宅するときは夕方6時ごろ。その時間にランドセルを背負って通学路を歩くのは、マイノリティーで遠くから「あいつなんでこんな時間にランドセルで歩いてんの?居残りさせられたんじゃない。」とバカにされる声が聞こえてきたものでした。今は学童クラブを利用している子どもはいくらでもいますが、当時はその存在があまり知られていないくらい少数でした。
私には、夕方まで学童クラブにいてそこから帰宅するのが嫌で恥ずかしくて仕方ありませんでした


小学校2年生に上がると学童クラブを利用しなくなる(利用は原則小学校3年生まで)姉と一緒にそこを辞めて、放課後は家に帰宅するようになります。自宅の鍵を持たされて両親がいない自宅に戻る、いわゆる「かぎっこ」になりました。それから行きたいときに学童クラブを利用するようになります。

放課後自宅に帰ると夕方母親が帰宅するまで自由な時間ができます。自転車に乗れるようになっていた私は自転車で色々な場所に行きました。好きなだけテレビ番組を視て過ごしました。友達の家に遊びに行ったり、友達が家に遊びに来たりするようになりました。

 

友達が家に遊びに来た時に、「ここはおやつが出でないの?」と聞かれました。家に大人がいないのでおやつを出すという習慣があることなど知りません。反対に友達の家に行くとお母さんが家にいて、おやつが出てきました。
保育園では実感したことが無かった、家にお母さんがいる家庭があることと、それが大多数で自宅に子どもしかいない我が家は珍しい、という事実を知りました。親がいないことを寂しいとは思いませんでしたが、うちは珍しい家庭なのだと思いました。

 

授業参観にはまず母親は現れませんでした

今は学校公開といって地域の人々に小学校の様子を見てもらいましょうというシステムになっています。私の小学校時代は日曜日に授業を行って、児童の両親が見に来るというものでした。現在では親がいなかったり、日曜日も仕事をしている家庭があったりすることを考慮してなのでしょう、平日から土曜日まで複数の日に渡り開催され必ずしも保護者が見に来るイベントという感じはありません。


私が小学校時代の授業参観は両親が、特に母親は綺麗な身なりにして来校するのが当たり前でした。自ずと○○のお母さんだ、お父さんだ、と子ども同士で指さしあうことになります。
私の母は同じ新宿区立の小学校で担任を持つ教員でした。同日、同時刻に自分の担任するクラスで授業参観を行っています。来るはずがありません。ほとんど授業参観に来た記憶がありません。その代わり月曜日が振替休日になり、母も休みになるので姉と母と3名で平日に遊びに出かけることがよくありました。


また授業参観には現れない母は小学校の教員が見学に来る研究授業に、他校の先生として授業を見に来るということがありました。我が子を教員の目で授業を見るということです。仕方がないことですが他の母親と違うことを否応なしに感じました。

 

父はというと単身赴任をしていて平日は家にいません

当時は海外出張も多かったので授業参観や運動会にも参加しないことがままありました。それ以上に嫌だったのが、他のお父さんと年齢が違いすぎることです。私が生まれたとき、父は42歳。今現在の私の年齢です。

当時は20代後半から30歳くらいで子どもを産んでいたと思うので、他のお父さんとは世代が離れています。また気が付けば髪の毛が少なくなっていた父は、他のお父さんよりも老けていることに拍車がかかります。更に趣味なのか分かりませんが素足に下駄を履いて授業参観に来たので、完全に浮いていました。たまに現れるあの変なお父さんは甲野のおやじか、という声が辛かったです。

 

保育園のときはどの家庭も共働き家庭だったので気になりませんでしたが、小学校にあがって我が家は他とはずいぶん違うのだと知りました。当時は専業主婦になるのが一般的で、また父親の仕事先に家族がついていく転勤族が主流。父親を単身赴任にさせている家庭も少なく、更に母親がフルタイムの地方公務員(小学校教員)というのも珍しいものでした。

 

そのような家庭環境で育った私は、いい意味で自由な時間を過ごした小学校生活でした。習い事も水泳くらいでした。保育園の頃にピアノを習ったのですが嫌になって辞めてしまいます。姉は最初の子だったせいか、ピアノに習字に進研ゼミにと色々やらされていました。水泳も小児喘息があった姉の体質改善のために始めたものに付き合わされた形で始めました。嫌々水泳を続けて姉が途中で辞めたのに、一緒に辞めると言えなくて6年生まで続けました。他の中学受験をする子たちが学習塾に通う中、私は何とか続けていた水泳だけが習い事でのんびりしていました。

 

単身赴任して普段は家にいない父親は趣味に付き合わせる形で小学生の私と接していました。
甲野家は代々理系の家系で、ひい爺さん、爺さんも、父も理系です。のちに姉も理系に進みます。小学生だった私に父はイオン化傾向を覚えるといいと元素記号を書いた紙を渡してきました。『かそうかなあ、まああてにするな、ひどすぎるしゃっきんききん』で覚えるあれです。
直流電流を図るテスターも渡してくれました。乾電池が残っているかがこれで分かるからと。更に新宿で行われていた理科実験教室に入れて、土曜日に実験をすることがしばしありました。
理系に関することは英才教育を受けたのだと思います

 

そして父は山登りが趣味。のちに日本百名山を全て踏破する、アマチュア登山家。最初は家族4名で行っていた山登りも母がついていけなくなり、姉が来なくなり、小学校後半から父と二人きりで登ることが増えました。
男の子だから容赦しなくなったのか、夜行列車で深夜3時に駅に到着。駅まで段ボールにくるまって仮眠。朝6時台の始発バスに乗って登山口に行き、夜明け前から登山。正午になる前に山頂に到達して日が暮れる前に次の山小屋まで歩く。夕方6時過ぎに就寝して、次の日は5時ごろ起床してまた歩く。そのような山登りを小学生の私と共にしました。巻機山という山があり、そこを私は小学校1年生で山頂まで登って下りてきたのですが、当時の最年少記録だったそうです。


もうどの山を登ったのか記憶がないくらい登りました。一日10時間くらい登るのですが、その間ずっと父は話を聞かせます。内容は多岐にわたり、歴史、科学、経済、色々と。延々と。
年齢差があるので他の親が知らない、おじいさんに聞くような話もたくさんありました。満州にいた時のこと、終戦を迎えた時のこと、戦後の食料難のことなど。戦後の復興から高度経済成長期、バブル期をリアルタイムで体験しているので話題が豊富です。その話をひたすら聞きながら山登り。知識量は増えて足腰が鍛えられました

 

小学校の後半は体がどんどんと成長していった時期でした。1年で10cm延びて小学校を卒業するときには170cmを超えていました。足から成長したので当時の写真を見直すと太ももが発達しているのが分かります。声変りをしてすね毛が生えてきて、急激に体は大人になっていきます。身長はクラスで1、2を争い、周囲からは散々背が高いわね、と言われました。他の背の低い男の子が、小さくて可愛いと言われる中、背が高すぎる、声が低い、と言われていました。


好きで身長が伸びたわけではないのに、背が高い背が高いと言われてコンプレックスになりました。傍目から見れば贅沢な悩みだと言われるでしょうが、細くて背が高い自分の身体が嫌でした。都営バスに乗るとこちらはランドセルを背負った間違いなく小学生なのに、子供料金のボタンを運転手が押してくれないことがありました。当時はこれが嫌でした。

 

精神に対して体の成長が先に進んでいてアンバランスだったと思います。学業も全然やっていなかったので中学受験組とは勉強の姿勢が違って成績はまさにオール3という真ん中という。身体と家庭環境は人と違っていて、何かに夢中で取り組むことが無かったふわふわした小学生。

 

いまでは考えられないくらい、ぼーとした日々を過ごしていました。この時期が良かったのかもしれませんが、他人と違うことを痛感していた時期でした。

 

~経歴 中学校編~へ続く

 

甲野 功

 

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コメント: 2
  • #1

    尼子雅彦 (金曜日, 17 4月 2020 00:05)

    昭和後期の市谷小学校指定のイズミヤ製の白のショートパンツはとても懐かしいですね!当時は、都内のほとんどの小学校の男児はこれを穿いていましたね!僕も同じイズミヤ製のNo.1000タイプを穿いていました。現在は、この白いショートパンツを穿いている小学生は見かけませんね。もし、この白いイズミヤ製のショートパンツが手に入るなら欲しいな。また、もし貴方が今でもこれを所持していたら、欲しいな。譲ってください。また、まだこれを所持している人がいたら紹介してください。


  • #2

    あじさい鍼灸マッサージ治療院 (金曜日, 17 4月 2020 00:33)

    コメントありがとうございます。
    もう随分前の事ですからショートパンツは持っていませんが、和泉屋は今もあるので販売しているかもしれません。