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~教員養成科はどういうところだったか~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 謝恩会でのスピーチ
謝恩会係で謝恩会でスピーチをしました

 

これまで「教員養成科」について聞かれることがありました。先日関西から来た学生さんからも質問されましたし、鍼灸専門学校の学生さんに卒業後の進路についてもどうでしょうかと相談されることも。

私の答えは基本的に「行きたければ行けばいいと思います」になります。身も蓋もないことですが本気で進学したいと願うならば進学すればいいですし、2年間の時間と多額の学費を費やすわけですから迷っているならばよしたほうがいいです

 

質問するということは判断する情報を得たいということだと思うのです。あるいは絶対に行った方がいいよ!と背中を押してもらいたいのか。今後、学生さんの参考になるように私の経験、体験、感想と現状でわかることについてまとめておきます。

 

 

教員養成科とは

鍼灸専門学校、鍼灸マッサージ専門学校、あん摩マッサージ指圧師専門学校の教員になる資格が取ることができる科です。もちろん鍼灸師あるいはあん摩マッサージ指圧師の国家資格取得者が生徒募集の対象者になります。2年間の在学期間があります。

 

盲学校の教員資格を取得できる教育施設を除くと2020年11月27日現在、確認できた学校は以下の通り。()内は所在地になります。

 

東京医療専門学校(東京)

東京医療福祉専門学校(東京)

明治東洋医学院専門学校(大阪)

平成医療学園専門学校(大阪)

※この情報は個人で調べた結果なので不備があるかもしれません。

 

以前はもう少し学校があったのですが教員養成科を閉鎖する学校があり、近年減少傾向にあります。東京でも数年前に1校減りました。

 

そして平成30年度から教員養成科課程のカリキュラムが大きく変わりました。なお鍼灸科、柔道整復師科も同様にカリキュラム変更がありました。教員養成科は従来の2年間だったカリキュラムが、臨床を集中的に学ぶための1年と、教員としての知識技能を習得するための1年に分かれることになりました。よって厳密には1年目は臨床能力向上の授業で2年目が教員になるための勉強ということ。私の母校である東京医療専門学校鍼灸マッサージ教員養成科では制度上は1年が終わった時点で卒業、そして2年目に再入学という形にして、生徒は2年間通年の学生生活を送るということだそう。つまり、臨床能力をあげるアドバンスコースと教員資格をとるコースが連続しているというのが現状です。ほとんどの学校が同じやり方をしているようです。

 

私が通っていた時代はこのカリキュラムではなかったので今より自由度があったようです。今の教員養成科の話を聞くとちょっと違うなということがあります

 

そのため、私がこれから書く体験談は現在の教育課程とは異なる個所があると思いますので、詳細は各学校にお問い合わせていただきたいです。そして新型コロナウィルス流行により一層授業環境は変わっております。来年度以降戻せるのか、このまま時短授業やリモート授業になっていくのかは分かりません。そして私は東京医療専門学校しか知らないのため他校の実情は分かりませんので、ここからは東京医療専門学校鍼灸マッサージ教員養成科について書いていきます。他校の教員養成科に興味がありましたら必ず自分で調べてください。

 

 

東京医療専門学校鍼灸マッサージ教員養成科に進学するきっかけ

私が東京医療専門学校鍼灸マッサージ教員養成科(以下、「教員養成科」と表記)に進学するきっかけです。

東京理科大学を卒業し半導体商社の一般企業に就職した私は社会人3年目で麻疹にかかり入院生活を余儀なくされて健康に関わる仕事、手に職をつけたいという気持ちになりました(入社直後にITバブル崩壊、アメリカ9.11テロが発生)。国家資格のことを調べたら4月入学しかなく3年間という時間と多額の学費という壁があり、脱サラしてすぐに勉強したいと思った私は10月から入れる民間の整体専門学校に入ります。企業を辞めて退路を断った状態での出発でした。

その後、ずっとこの仕事をするならば国家資格が必要だと考えるようになり翌年4月に進学しようと思えばできたところを学校見学や研究にあてるため翌年に進学を伸ばすことを決めます。その間に学校見学や調査をしっかり行いました。このときの体験が進学希望者へのサポートに繋がっています

 

26歳で東京医療専門学校鍼灸マッサージ科(通称、本科)に入学し、あん摩マッサージ指圧師を取るためについでに鍼灸も学ぶという姿勢で学生生活が始まります。本当に鍼灸はおまけの気分だったので最低限の練習しかせずに3年間を過ごしました。外部の勉強会に行ったこともなく鍼灸院でバイトしたこともなく。実技練習は学内試験対策のみ。

鍼灸のことを気にするよりも競技ダンス選手へのサポートでは何が必要かと研究と実践する日々でした。この3年間は良くも悪くも人生に大きな影響を与えた期間でした

 

国家試験を終えてあん摩マッサージ指圧師、鍼師、灸師の3資格が取ることが確実になった私は就職活動をして、競技ダンス選手が多い土地、東京都北区十条を勤務地に決めます。そこで1年間新人鍼灸マッサージ師として働きながら臨床経験を積みます。

職場が鍼灸整骨院という業態であったこともあり、外傷処置の能力が低いことと院長から可能なら柔道整復師も取ってほしいという要望があり、東京医療専門学校柔道整復師科の進学を決意します。丸一日週6日勤務、祝日も勤務という仕事が辛くなっており、再び学生になってもう少し楽をしたいという本音もありました

翌年4月からは午前中に代々木にある柔道整復師科に通い午後3時から鍼灸整骨院で働く。土曜日、祝日はフルタイムで働くという生活になります。午前中に勉強をしてインプットし、午後は臨床現場でそれを確認、施術に活かすというアウトプットを同時に行う日々が始まりました。学業と仕事の両立は大変でしたが本科を出ていたので重複するところも多く、両方が噛みあい好循環になりました。ただ学生でありながら管理職に昇進することで臨床以外の業務がどんどん増えてきて術者よりもマネージャー、経営の割合が強くなっていきます。柔道整復師国家試験を前に経営戦略のセミナーに出たり経営者会議で熱海に泊まりに行ったりと、望んでいた方向とは異なる環境になってきました色々と限界がきて柔道整復師国家試験に専念する意図もあり3年生の1月に職場を去ります。

 

学生のみになった私が1ヵ月しっかりと勉強に専念し2011年3月に柔道整復師国家試験を終えて次の希望である整形外科で働くために動き出そうと考えていました。その矢先に東日本大震災が起き、東京も大混乱。4月半ばまで就職活動は停滞します。落ち着きを取り戻した4月半ばに希望の整形外科があるクリニックに柔道整復師としての採用が決まりました。そこで腰を据えて働く予定でした。2011年4月から入った職場はできたばかりのクリニックでした。最初から色々とおかしな点がありましたが時間が経つにつれて色々な問題が明るみに。もうこの職場は危ないと判断したのがその年の秋頃。進路を考える必要に迫られました(そのクリニックは2012年6月に廃業)。

そこで考えたのが、また別のところに就職して修業をする、開業してしまう、そして教員養成科に進学するというという3択でした。

 

 

教員養成科進学を後押ししてくれた人々

教員養成科の存在は本科3年生時に知っていました。当時は本当に勉強できる人が進学する場所という感じで、学年トップの同級生ともう一人が教員養成科に進学しました。なお私よりも成績が良かった同級生は東京医療専門学校に落ちて他校の教員養成科に進学しました。あの当時の私には学費が無いということもありましたが、この成績では行けない場所という認識でした。それだけ敷居が高い印象。

それから5年経過してまた教員養成科進学を考えたのは柔道整復師科同級生2名の存在がありました私がいた柔道整復師科のクラスからは3名教員養成科に進学していました。うち2名は東京医療専門学校鍼灸科卒。つまり東京医療専門学校で鍼灸科→柔道整復師科→教員養成科と間をあけずに8年間通うことになっていました。本科では1学年下、柔道整復師科では同級生という間柄。その二人が教員養成科生活は充実していて素晴らしいと目を輝かせて語っていました普通なら会うことさえできない素晴らしい先生から授業を習い、社会人としての勉強にもなると。二人は高校卒業に鍼灸科に進学しました。つまり当時20代半ばでしたがフルタイムで働いた経験がありません。教員養成科に入って初めて名刺を作ったと語る姿に羨ましさがありました。

 

本科では鍼灸はおまけと割り切り本腰入れて勉強してこなかった後悔もあります。保険請求をする施術は今後厳しくなると踏んでいた私はマッサージと鍼灸を軸に保険を使わない自費診療でやっていく決意をしていました。そうなると東洋医学分野がとても弱いという不安材料があります教員養成科でしっかりと5年前できなかった勉強と練習をしたいなと心で思うようになっていましたクリニックは先がないということを妻に伝えて今後のことを相談したときでした。「(教員養成科に)行きたいんでしょ?行ったら」と妻が言ってくれました。柔道整復師科2年生の時に結婚した私達。互いに学籍がある身でした。柔道整復師国家試験を前に仕事を辞めることに反対することなく2月から4月まで数ヵ月無収入であることを受け入れてくれました。そして翌年1月には第一子が生まれるという状況でありながらまた学生をしてみたらと言ってくれました。 教員養成科は拘束時間が長いためまともにバイトができません。できたとしても赤ちゃんがいる状況では夜遅くまで働くというのも無理な話。共働きであることと私の実家そばに住んでいたことが幸いして、2年間何とかなるわよ、と言ってくれたのです。

同級生と妻、そして子どもが生まれるというのに進学を反対しなかった両親のおかげで教員養成科進学を決意できたのです。

 

 

進学への覚悟

母校の教員養成科は「10年間の修業を2年間で」をモットーに“食っていける鍼灸師育成”を掲げていました。それまでの学生生活とは異なり、ほぼ無収入で学費・生活費が出ていく2年間で、技術・知識・人脈・教員資格など武器を揃えて自分の商品価値を高める!という決意で進学を決めました。

傍から見たら正気の沙汰ではありません。子どもが生まれたばかりで学生になるなど。

しかし2年間の時間と学費を自分に投資して何段階もパワーアップさせるという背水の陣で挑戦することに。それまであったどこか学生は楽だからという気持ちは一切なく、絶対に成長するという信念がありました。凄い先生方。優秀な同級生。そして柔道整復師科3年間を共に過ごした同級生が2年生の先輩でいる。10年間の成長を2年間でしてみせる!と鼻息荒く入学式にのぞみました。

 

 

新卒ばかりの同級生

教員養成科に進学。校舎は柔道整復師科と同じ代々木校舎。1年間をあけてまた通うことになりました。柔道整復師科時代は学生ホールにいる教員養成科の面々がとても優秀そうに見えたものです。その中には関東鍼灸専門学校創設者の縁者もいて勉強できそうだよな、と内心思っていたものです。

さて30期として入学したクラス。28名で同級生が27名です。オリエンテーションで知ったことですが26名が新卒。つまり2月末に国家試験を終えた今年鍼灸師1年目のルーキー。そして1名が資格を取って2年目。それも柔道整復師を同年に取り母校の柔道整復師教員補佐枠として専門学校で働いた。鍼灸師として臨床で活躍していた人はいませんでした。

あれ?話が違うぞという気持ちに。これまで耳にしていたのは臨床歴が長くて弟子に現場は任せて本人は教員免許をとるのもいいかと入ってきた人が多いと。凄い経験豊富な先輩が同級生になるのかと期待していたのに。同級生全員、私が鍼灸師になった時点で鍼灸専門学校にも通っていないとは。一つ上の29期はこのようなことがないのに。30期はなぜ新卒だらけなのかと面食らいました。

 

 

やはり人材の宝庫である教員養成科

春まで国家試験対策していた同級生か、と当初は肩すかしをくらった私ですが、そこは教員養成科。逸材が揃っていました。当然ながら全員が国家資格持ちです。3分の1は私同様柔道整復師も持っています。更に教員養成科まで進学しようという人間なので勉強熱心、野心があるものばかり。北は北海道、南は鹿児島までまさに全国から学生が集まっていました私は東京医療専門学校しか知りませんでしたが、同じ呉竹学園グループの新横浜校、大宮校からも来ていて学校の特色の違いを知りました。北海道、香川、福岡、鹿児島、名古屋、静岡といった地方の学校環境や土地柄も同級生から知ることになります。関東の伝統校と言われる花田学園、鬼木学園、東洋鍼灸に、新設校と言われる平成10年以降に設立した学校の生徒。業界の視野が大きく広がりました。

そしてずっと勉強をしてきているので学力が高いのです。私は鍼灸国家試験を受けて5年が経っています。その間に東洋医学概論をはじめ多くの教科書が改訂。経穴(つぼ)の位置や名称も微妙に変更。試験の難易度は上がっています。元々鬼門であった東洋医学の勉強についていけなかったのです。習っていないよこんなこと!ということがたくさんありました。東洋医学を勉強してこなかった心残りもあって進学したのですから当然なのですが、5年間でこれだけ変わったのかと。また中府、雲門と経穴を一から覚えることになりました。試験で水道と言われて「そんなツボあったか?」と焦ることに。

教員養成科では鍼灸を現代、経絡、中医と分けてその分野のトップ講師が教えにきてくれます。教員養成科に入るまでそのような分け方があること自体知らなかったです。現代といっても低周波パルス通電、スポーツ鍼灸、良導絡など各ジャンルのスペシャリストが教えに来ます。中医にしても複数の講師が実技、理論と教えます。経絡もそう。更に灸は灸の実技がありますし、鍼だけの実技もあります。鍼灸の各分野で飛びぬけてできる同級生がいて、実務キャリアは私の方がありますが、技術知識共に歯が立ちませんでした。全科目まんべんなくできた私と違って、これだけは負けないという猛者が多数いました。

 

またキャラクターも濃い人が多かった。個人情報なので詳細には書けませんが経歴が凄い。ある同期は自ら厳しい食事制限を課して貧血状態に追い込み、自身の舌を計測し続けて血虚の舌とはどのような経緯をたどるのか実験した人がいます。先輩には超有名国立大学卒がいて、後輩には80年代大人気バラエティー番組の企画で出ていた人、某大学元教授など挙げだすときりがありません。

 

これまでに取り上げた先生で教員養成科卒の人は

関東鍼灸専門学校副校長内原先生

モクサアフリカジャパン他の山川先生

京都の樽井先生

ネパール棒灸の水野アグスティン先生

阪口治療院の阪口先生

治療室らるくの飯塚先生

まや治療室の上床先生

などです。これも教員養成科卒のほんの一部です。

我が30期同級生のうち3分の1くらいは開業して自分の院を持っていますし、専門学校の専任教員になった人も複数名います。

 

 

多岐に渡る学習内容

※これは現行のカリキュラムになって大きく変わったかもしれません。あくまで私の体験談としてみてください。

 

食える鍼灸師”と言いますが臨床技術だけでは足りないことは明白です。それ以外の学習も充実していました。入学してすぐに自己紹介とスピーチの授業があります。テーマが与えられてグループでスピーチを行います。グループ内の投票で1位だった人はクラス全員の前でスピーチをします。これが3ヵ月あり人前でしっかりと説明するスキルがつきまた互いのことをよく分かるようになります。経営手法や児童心理学なども勉強になりました。鍼灸以外にも徒手療法の授業も豊富で当時知らなかったリンパ浮腫療法も教えてもらいましたしAKAも習いました。

 

経営や組織という面においても自主性を重んじるのが教員養成科でした。ほぼ全員に役職があり、クラス運営と附属施術所運営は学生達によるものです。

東京医療専門学校全体の運動会があるのですがそのときに体操は教員養成科2年生が前に立ってする伝統で趣向を凝らして行います。

附属施術所の物品管理、患者さんの割り振りなど運営全般は生徒が行います。会計業務、業者とのやり取り、備品購入、チェックなど全て生徒。そのため所長、副所長、中国鍼係、リネン係など役職が決まっていました。私は名誉職的な相談役という自分が初めての役職が与えられました。卒業時の謝恩会も生徒が開催します。謝恩会委員を作り予算を組み、会場予約、招待状の発想、料理の手配、記念品の用意、スケジュール管理、二次会の手配など全て学生が行うのです。もちろん司会進行も。私は謝恩会係でもあったので京王プラザホテルとやり取りをしていました

このような学生生活で、開業なり就職なり卒業後に臨床技術以外の“食うためのこと”を学びました。社交性を学ぶ場でもあったのです。高卒で鍼灸科に入り、そのまま教員養成科に入学すると21歳で入学、23歳で卒業となります。23歳でも社会でやっていけるものを身につけさせることをしていると感じました。

 

鍼灸分野では臨床・教育・研究の3分野が主流だと言われています。臨床が一番従事する人が多いのではないでしょうか。そして教育。専門学校の教育やセミナーを開いて不特定多数に教えること。院内教員といって同じ職場で勉強会を行うこともよくあります。研究は症例発表や実験を行って仮説を検証することなどです。

挙げた3分野以外にも鍼灸師の知識を活かして別業種に行くことや経営にまわることもあるので4つ目のその他がありますが、臨床・教育・研究をしっかりと学び実践する場が教員養成科でした。

 

 

臨床

代々木校舎には教員養成科附属施術所があり、別の入り口から患者さんが入ることができます。教室側から学生は受付ブースに入ることができます。一般の方から少額の料金で鍼灸を受けることができます。ベッドの数は20床くらいだったでしょうか。鍼灸院で考えれば相当な規模です。平日午後だけ開いており、私のときは1年生のとき年明け1月から患者さんを先輩方から引き継ぎます。約3ヵ月を1クールとして3クール回します。90分枠で一日2名。平日全部で10名診られる計算です。全部の枠が埋まることは珍しいので各自1週間で6~8名くらいの患者さんを担当しました。

新しい患者さんになればカルテを作り直していきます。患者さん情報、問診、検査法、方針など。ここではSOAP形式で記載することが決められております。また各患者さんにそろぞれ先に挙げた現代、経絡、中医の3流派の鍼灸どれかで1クール行っていくことを決めます。3流派すべてを1クールに1つは用いないといけないルールでした。こうすることで偏りのない(得意なことばかりすることがない)技術を実践し、しっかりとカルテに残す訓練になります。カルテ内容のチェックも各指導教員が採点します。

なお今は新型コロナウィルスにより引き継ぐ時期が異なったり枠も変わったりしているかもしれません。

 

私は施術所の相談役という役職になっていました。附属施術所の臨床では毎日指導教員がいますから相談されることはほぼありません。相談役は受付業務が免除されるのでひたすら臨床です。受付業務とはローテーションで2名受付に立ち、会計や電話番をするのです。何かしらの理由で担当術者ができなくなったときは代わりに入るのも受付の仕事です。私はその仕事が回ってこないので臨床に立つばかりでした。患者さん側の事情を除いて一度も受付に代りを頼んだことなく附属施術所の臨床を終えたのは現場に出てきた意地でした。変な実験の被験者となり膝が伸ばせないくらいの筋肉痛になったときもやり遂げました。新卒の鍼灸師がここで経験を積んで対応できるようになる場でもあります。少額といえど料金をいただきます。ここまで安心できる現場はないでしょう。クラスメイトが周りにいてに担当教員まで常駐しています。

 

 

教育

教員資格が取れる以上、教育に関する授業もしっかりあります。特に模擬授業は割り当てられた教科、単元の個所をクラスメイトの前で授業をするのです。資料つくり、プレゼンテーション、時間配分など考えることがたくさんあります。最低限その範囲をしっかりと理解していないといけません。資料つくりもこのサイズ、何枚までと指定があるのでパソコンを駆使して工夫して作ります。教員養成科に入って初めてパソコンやタブレットを購入したという人も少なくありませんでした。

模擬授業風景はビデオ撮影され、授業を受けたクラスメイトからアンケート用紙で意見をもらいます。ある意味で臨床以上に過酷な現場を体験することになります。内容の理解、適切な説明、話し方、表情、話題といった複数のスキルが求められるのです。この授業をすると専門学校の先生をバカにすることができなくなります。これだけ苦労して授業準備をして教壇に立っているのかと分かりますので。1年生はじめのスピーチ授業が活きます。

 

 

研究

特に私がためになったことが研究かもしれません。1年生の時は生理学の非常に厳しい先生が担当でした。医学部で生物の研究をするようなガチガチの研究者で本科時代も授業も試験も難しくて生徒からは嫌われていた方でした。東京理科大学を出ている私でもこの実験はきついなと感じるほどの内容でした。ここまで高度な実験をするのかと驚きましたし、レポートも大学時代を彷彿させる量と質を求められました(なお東京理科大学は日本一卒業が難しいといわれています)。そこで厳しく鍛えられて、2年時では卒業研究を行います

先行研究の調査から実験プロトコルの作成、実験、データ解析、プレゼン資料作成、論文作成、発表まで全てを行います。研究の基本は誰もやったことがない、ですから過去に全く同じ研究がないかを調査することから始めます。それよりも前にどのようなことを研究したいか自問自答があります。学科長の言葉を借りれば、妄想レベルから現実的な形に創り上げる、工程を行うのです。

このために国会図書館に何度か行きましたし実験道具も自作で制作しました。最初の理想とは実験環境が整わず妥協することも多かったです。そして結果を数学的統計処理をして有意差があるかどうかをみる。その結果をどのように解釈し考察を加えるのか。これは東京理科大学でもできなかった0から作る研究発表でした。最大3名までグループで研究を行っても良いのですが私は求める答えを出すために一人でやり切りました。その経験はあまりにも大きなものでした論文の読み方、データの見方。論文が出ているから鵜吞みにしてはいけないということが嫌というほど理解できました。そして実験をすることの困難さを。毎年教員養成科卒業研究発表会に出向くのは本当に苦労して出した発表を見ておきたいという気持ちです。

そしてこの卒業研究発表会は1年生が聞くことが必須です。先輩方の実験をみてそれを参考に別の視点で研究をするというのも教員養成科の伝統です。私が行った研究をみて1期下の後輩がより進化した研究に挑戦してくれたことがあり、とても嬉しかったものです。

当日の発表はたまたま私が最後の番で緊張でぐったりとしながらもしんがりを務めました。本科、柔道整復師科でも学生発表をしましたが教員養成科の発表は外部の先生も来ているので本当に大変でした。

 

 

とても長くなりましたがこのような2年間でした。まだまだ書き足りないことばかりです。教員養成科は拘束時間が長いためクラスメイトは家族のように長い時間を過ごします。毎年クラス内で結婚するカップルができるとも言われています。全員が資格持ちですから実技練習もバンバンできます。器材もベッドも設備が充実した環境が揃っています。

練習相手も。特殊技能を持った人が。先輩も後輩も教員も。

 

鍼灸や東洋医学に本気になれなかった私が2年間でまさに10年分の鍼灸を受けたかもしれません。あの2年間があったから今があります。

 

その頃は長女が赤ちゃんで保育園に送ってその足で学校へ。夜中の発熱で深夜タクシーで病院に行ったことも一度や二度ではありませんでした。コンタクトレンズを付けているのか外しているのか分からなくなり2枚重ねていたり目の奥に丸まっていたりしたこともありました。血圧も上が160の下が120という完全な高血圧症状でした。肉体的精神的にかなり追い詰められた状況もありました。本気で同級生に鍼治療をしてもらったことも数知れず。

教員養成科は私を本当の意味で“鍼灸師”にしてくれた場所でした。それと同時にあん摩マッサージ指圧師である私をより強化し、柔道整復師としての私もレベルアップさせました(柔道整復師科のトップが外傷の授業をしてくれましたし、バンテージ固定の授業もリンパ浮腫療法で行いました)。

色々なリスクを背負って2年間を教員養成科に費やし今があると心から言えます。ただし教員養成科はあくまで通過点だと思いながら過ごした2年間でもありました。ここがゴールではない。卒業してから本番だと。卒業時に制作したビデオでコメントを画用紙に書く企画がありました。そこに書いた言葉は「通過点」でした。

 

あじさい鍼灸マッサージ治療院 教員養成科ビデオ
卒業にあてってコメントを書いた。卒業時作成したビデオより

 

 

東京医療専門学校鍼灸マッサージ教員養成科、そして他校の教員養成科に興味がある方に届けばと思います。

 

甲野 功

 

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